ごきげんよう! さわこです
 
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あらら、下書きのままで投稿していなかった・・・
25日の記事を発掘しました。
 
悩ましい、私のひとりごと・・・
 
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イエス様との出会いがなければ、
私の肉体と精神は
崩壊に向かったことと思います。
 
私が壊れるその前に、
聖霊様の導きによって、
生ける神キリスト様に出会いました。
 
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そして、肉的人格崩壊では無く、
聖書的意味での
霊的自我崩壊である砕ける道へと
導いていただきました。
 
ああ、なんとありがたいことでしょう。
 
砕いていただく事が、
什一・献金においても起こるのです。
 
キリスト様ご自身が
十字架で砕かれたことは
私の肉的自我を砕くためでありました。
 
この厳粛な真理は
什一をお返しすることと
献金というささげもの
とも関連していると
あらためて認識いたしました。
 
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キリストの恵みの愛によって、
神様の恩義に誠実に応答することが
言い換えれば、神に従うことが、出来る私へと
 
日々新たなる魂(全人格)へと
再創造してくださいと祈りました。
 
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聖書には、持てるものに応じて、
力に応じて、とあります。
 
しかし
 
持てる以上のものを、
ささげるならば、
満たされ、
裕福にされるという事が、
神様のくださった愛への恩返しなんだろうか?
 
そんなふうに思ってしまいます。
 
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しかし、
裕福になることを目的として、
ささげることは
違っているとあります。
 
私たちの持てるものすべては神のもの
100パーセント神のもの
 
私たちは、それを預かり管理せよと、任されているのです。
 
預かりものが少ないものと多いものとでは、什一も諸献金額も違って当たり前。
 
力以上のものをささげて困窮するのを見てられないので、
神様は可哀想にと顧みられるお方であるかのように思ってしまう・・・
 
どうして、わたし、こんな発想してしまうんでしょうかしらね・・・
 
神の国の原則を前に、
神様の言われる「試してみよ」の御言葉を前に、悩ましい。
 
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マラキ3:10
十分の一の捧げものをすべて倉に運び
わたしの家に食物があるようにせよ。
これによって、わたしを試してみよと
万軍の主は言われる。
必ず、わたしはあなたたちのために
  天の窓を開き
祝福を限りなく注ぐであろう。
 
マラナ・タ
主よ、私に忠実な誠実な信仰を持たせてください。