ごきげんよう!さわこです。
永遠に地獄の火で苦しむという霊魂不滅の考えは、
新しい天と新しい地には
「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも、労苦もない」(黙示録21:4 )
という聖書の教えと相反しています。
ギリシャ哲学は、キリスト教の人間の性質と、死者の状態に関する概念に影響を与えました。
さらに、天国そのものの概念にも影響を与えました。
安息日学校聖書研究ガイド副読本2022年4期
「再臨と死者の復活、そして悪の終焉」
アルベルト・R・ティム より引用
以下 引用箇所
ホメロスは、『オデュセオイア』の中で、
特別な人々の魂は、神々によって「世界の果てにあるエリュシオンの平原」に連れて行かれると述べています。
「エリュシオンでは、雨、あられ、雪もふらず、海からは穏やかに歌う西風を吹き付け、すべての者に新たな命を与える」のだと。
プラトンの『パイドン―魂について』の中では、
ソクラテスは「情報の清浄な住処へと至って、そこで、地を愛し求める哲学によって十分に自らを浄め終えた者が、それ以後、肉体から完全に離れて生きる」と言っています。
ギリシャの宇宙観は、文字通りに受け取ることができない神話的イメージで表現されている、という人たちもいます。
しかし、これらの神話が、西洋の世界観とキリスト教の天国や、死後の世界に対する理解の多くを形成しているのです。
エドワード・ライトは「天に昇って行くという観念」は、「ヘレニズム時代のペルシャ・ギリシャの観念をユダヤ教が一部となった」と説明しています。
フリーマン・バッツは、この問題の核心に触れ、「我々がこのように考えるのは、ギリシャ人がこのように考えていたからである」と述べています。
今日でさえ、ほとんどのクリスチャンは、
最後の復活の時に、「肉体のない」魂が、この世で肉体にもどされ、その後、天国に戻って肉体を持って永遠に生きる、というギリシャ的な観念を持ち続けています。
こうして、聖書の描く天国の光景の多くが不鮮明にされてしまいました。
天国には、実際に存在する聖所や神殿、住まい、木々がある都を想像することを、困難にしました。
(健全な想像力が働きにくくされてしまいました)
西洋の二元論的世界観から、聖書的、統合的な視点に考え方を変えない限り、天国についての聖書の教えを受け入れることは困難であるかもしれません。
以上引用終わり
しかし、神は、
神の真実を求める人はいないかと、
神は天から見下ろしておられます。
詩編14編2節
「主は天から人の子らを見渡し、探される。
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」
詩編102編20節、21節
「主はその聖所、高い天から見渡し、
大空から地上に目を注ぎ
捕われ人の呻きに耳を傾け、
死に定められた人々を
解き放ってくださいました」
マラナ・タ
聖書のことは、聖書から学ぶのです。
ギリシャ哲学や、スピリチュアル思想や、昔の人の言い伝えや、新しい科学やetcで聖書を診断してはなりません。
神のことは、神ご自身が語られます。
人間の知恵で計ってはなりません。