ごきげんよう!さわこです
イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のみわざがこの人に現れるためである」ヨハネ福音書 9章3節
信仰を持った当初に覚えた聖句の一つでした。(32年も前)
今朝、この聖句を確認して、
「神のみわざが現れる」であって「神の栄光が現れる」
のではないことに気が付きました。
私は、どうして、神の御業を、神の栄光と記憶していたのだろう。
どうして、こうした記憶違いが起きたんだろう。
詩篇19編2節2 を思い出しました。
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
私の中では
「神の栄光=神の御業」だったのでした。
さて、ヨハネ9:3は
生まれつき目の見えない人を見て、本人の罪か親の罪か、
と尋ねた弟子にイエス様がお答えになった言葉でした。
聖書の民であるユダヤ民族の中でも、因果応報論が根強いのか。
それは、日本文化の中にもある。
浄瑠璃で歌われる「親の因果が子に報い」というフレーズは多くの日本人の記憶の底を流れていると思う。
誠実に、利他の精神で、多くの人から敬愛されて生きて来た父に降りかかった災難。
医療事故とのグレーゾーン。
60代前半の医師であった父。信頼して受けた手術。
同業者として、自分も加害者になり得る可能性を自覚していたのだろう。
両親は怨恨の思いに囚われることを選ばなかった。
辛い気持ちで、現実を受け入れた。
自分たちの上に起きることに、神が介入しない訳はない。
それが神の業としたら、同時にまた、神の栄光が、この悲劇の中に現されることは明らかである。
そう、父と母は考える思考を選び取る意志を神から賜りました。
失語症、右半身麻痺となった父を、母は17年間介護しました。
健康だった時代よりも、さらに母は明るい人に変えられました。
両親は眠りにつきましたが、その後も人生の試練は継続しています。
信仰を持っていても、気持ちの滅入る日はやってきます。
気持ちが滅入るたびに、私は、ヨハネ9の3を瞑想します
マラナ・タ
イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。
神のみわざがこの人に現れるためである」ヨハネ福音書 9章3節