ごきげんよう!さわこです。

 

人間の本質とは

(2022.4期安息日ガイド副読本より まとめレポート)

 

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人間の本質とは

①「必ず死んでしまう(創世記2:17)と言われたのは神

②「決して死ぬことはない(創世記3:4)と言ったのはサタン。

 

世界中で多くの人は、人間は死すべき肉体を持っているが、不死の霊魂、精神、あるいは天のエネルギーを持っていて、死後も意識が残っているという考えを支持しています。

この思想は「決して死ぬことはありません」と言ったサタンの思想と同じです。

 

それに反する考えもあります。

人間の肉体が死んだら「意識」はありません。

精神や魂だけが体から抜け出して天に帰って行くとか、空間に漂っているとかいう考えではありません。

この思想は創世記での神の言葉と同じです。

 

この相反する見解は、死についての理解を二極化してしまいました。

そのために、聖書の裁きのプロセスや救いの計画全体をゆがめてしまいました。

 

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●人間の本質についての哲学的な見解

いにしえから現代までの教え

①     古代エジプト人

人は、肉体・心・影・そして魂と霊という二つの霊的な存在からなる有機と考えた。

死によって、これらの構成要素は分離し空を飛ぶ鳥のように解放されると信じられていた。

死者を死後の世界へ送る備えをするために、多くのお守りや魔術的な儀式を用いた。

太陽神は昼には天空を周り夜には冥界に眠る自分の死体(ミイラ)を訪れると信じていた。

 

②     古代ギリシャの哲学者(ソクラテス・プラトン)

死んだ肉体の死後も生き続ける不死の霊魂があると考えた。

魂の転生、輪廻転生論を強調した。

哲学を実践した者たちの魂は転生する。それ以外の魂は最初の霊が終わった後に裁かれる。

その後、人間の魂が獣の生を受けることもあるし、再び人間になることもある。

 

③     ギリシャの二元論

不死の魂と死すべき肉体の分離という理論は、ヘレニズム(ギリシャ文化)によってローマ帝国に広がった。★ローマはギリシャを征服したが、ギリシャ哲学はローマを征服した。

 

④ユダヤ教の重要な宗派が、ギリシャ哲学の霊魂不滅の思想を取り入れていくことになったことも不思議ではない。

・     サドカイ派は、「魂は肉体と共に死ぬ」と考えた。

・     ファリサイ派は、「魂は不死の生命力」を持ち、悪意を持って生きる者は「永遠の」に閉じ込められ、戒めを守って生きている者は「復活して再び生きる力を持つ」と主張した。

・     エッセネ派は、「魂の不死」を明確に教えた。

 

ユダヤ教思想の主要な部分が、ヘレニズム(ギリシャ)的な思想によって再形成された。

 

⑤     使徒時代以降の古代キリスト教も、ヘレニズム(ギリシャ)の影響を免れなかった。

ニュッサのグレゴリオス(335-395年頃)は、復活に関する聖書の教えをギリシャ哲学の不死の理論と調和させようとした。

 

⑥     死すべき肉体と不死の魂というギリシャ的な見方は、時代を超えてキリスト教思想を形成し、今日では、臨死体験や体外離脱体験によって非常に強く広がっている。

 

聖書に基づく人間の性質を明確に理解することは、いにしえからの欺瞞に惑わされることを避けるのに役立つ。

 

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霊魂不滅という観念は、古代近東の諸宗教に出現し、東洋の宗教やギリシア哲学において蔓延して行きました。

 

 

それから、キリスト教・ユダヤ教・イスラム教へと紛れ込んで行きました。

 

近代においては、進化論的哲学の形をとり、究極的に、人間は進化して不死の段階に達するという提言を出してきました。

 

聖書の預言は、その思想が幻想であると警告しています。

 

 

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●聖書の見解を理解するために役立つ聖句

創世記・天地創造1章1から3節より

1、神は、神の形にかたどってアダムとエバを創造された(1:26)

2、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。「人はこうして生きる者となった」(1:27)これが生きるプロセス。

3、【死】はその反対のプロセスを通る。

「塵に過ぎないお前は塵に返る」(3;19)

 

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●七十人訳聖書の問題点

1、「70人訳聖書」とは、ヘレニズム世界(ギリシャ語を話す世界)で広範囲使用されている旧約聖書の古代ギリシャ語版のこと

 

2、「人はこうして生きる者となった」(1:27)

 

・生きる者・・・ヘブライ語では「ネフェシュ」を、ギリシャ語の「プシュケー(魂)」と訳した。これは、プラトンの用いる魂と同じ語である。プラトンの考えた魂とは不死。聖書の意味とは異なる。ヘブライ語の本来の意味の真反対に訳された結果となった。

 

・     ここに誤解が生じた。この点は極めて重要。

 

・     ヘレニズム時代(ギリシャ文化・ギリシャ思想の時代)の多くのユダヤ人や異邦人は、ギリシャ文化のレンズを通して70人訳を読んだ。

 

・     「ネフェシュ」を「プシュケー」という単語に訳した段階で、ギリシャ思想の「不死なる魂」ではないことに気が付かなくなってしまった。

 

・     結果として、聖書の世界観ではなく、ギリシャ文化を伝えることになってしまった。

 

・     ★聖書の本格的な研究は、原文のヘブライ語の意味を確認する必要がある。

 

・     英国の神学者HWロビンソンは「ヘブライ語の人間の性質の概念は、命を吹き込まれた肉体であって転生した魂ではない」と正しく認識していた。

『死者と生きている者との違いは、息をしているか、息をしていないかである』

 

・     ドイツの神学者ハンスWウルフ「人はネフェシュを持つのではなくネフェシュであり、ネフェシュとして生きている」つまり、『人間は、全体から分離された意識的な存在としては生きていない』

 

結論的感想:(私の理解したこと)

 

ヘブライ語の魂とは、「霊肉ともなった人格のある人間そのもの」である。

聖書的な魂とは、「霊肉ともなった人格のある人間そのもの」人間の総合体である。

人格とは、心・感情・知性・理性・品性の総称。精神的命そのもの。

しかし、人は同時に「肉体」を持つ。肉体から精神は切り離されない。

肉体が死ぬとき精神分野も失せる。人間の総合体は土の塵に返る。

 

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ネフェシュについて

・     ネフェシュは、生きている人間のみならず、植物を除く他の生物をも指している。

創世記1:20,21,24,30参照

・コヘレト3:19,20

「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては一つのところに行く。すべては塵からなった。すべては塵に返る」

 

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感想

・     ⇒このことは、犬を何代にもわたって飼ってきた者として体験的にわかる。

盲導犬・警察犬・セラピー犬などの活躍からも分かるんじゃないか。

・     人間は生き物と愛の交流を持つことができる。人間に愛されていない犬は凶暴になるが、飼い主の愛を受けるというリハビリを通して変わって行く

 

その他の聖句からも確認できる。

①     エゼキエル18:4口語訳「見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ」

 

②     エゼキエル18:20口語訳「罪を犯す魂は死ぬ。子は父の悪を負わない。父は子の悪を負わない。義人の義はそのひとに帰し、悪人の悪はその人に帰する」

 

③     レビ記24:17・18(ESV訳)「人の命を取る者は誰でも必ず死刑に処せられる。誰でも動物の命(ネフェシュ)を取る者は、命には命をもって償うものとする」

    ↓

これらの聖句は「魂」と訳されることがあるネフェシュは、死すべきものであることを確かにしています。

 

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●    霊は神に帰るという事の本来の意味

1、魂の死を認めながらも、死者の霊は、意識をもって神のもとに帰るという人もいます。

この理論を支持するために引用されている聖句

①     コヘレト12:7「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る」

 

②     創世記2:7「主なる神は、土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れたられた。人はこうして生きる者となった」

 

③     創世記3:19「塵に過ぎないお前は塵に返る」

この「霊」が神に帰るという概念は、どういう意味でしょうか?

聖書注解者の中には、ギリシャ哲学者が提唱したように、これらの聖句から、肉体の死後も生き続ける存在であると暗示していると主張する人もいます。

しかし、そのほかの聖句を読むなら、この主張には矛盾があり、統合性がありません。

 

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2、死者が無意識の状態である理論を支持する聖句

 

①詩編115:7(口語訳)「死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない」

 

②詩編146:4(新改訳)「その息(ヘブライ語のルアハ)が絶えると、その者はおのれの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅び失せる。」

 

④     伝道の書3:19(口語訳)「人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち、一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息を持っている。人は獣にまさるところがない」

 

⑤     伝道の書9:5・10「生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし、死者は何事も知らない。また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事柄さえも、遂に忘れられる。・・・すべてあなたの手のなしうることは、力を尽くしてなせ。あなたの行く陰府には、技も計略も、知恵もないからである」

 

⑥コヘレトの言葉12章1-7節には、死に至る老化のプロセスが書かれている。

 

「あなたがまだ若い間に、あなたの死宇像主を敬い、あなたの創造主と楽しい交わりを持ちなさい。年月を経て不自由になり、元気がなくなる前に。目がかすみ、世の中がぼんやりしてくる前に。」(メッセ-ジ訳聖書抜粋)

 

コヘレト12:7「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(新共同訳)

*それを受けて8節には

「なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しいと」

 

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★良く生きた人も悪く生きた人も、共に墓に埋葬されて、意識もなく眠っている。

死んだ段階では、その生き方についての評価を神は下してはいない。

 

それを検証できる聖句↓

創世記25:8(口語訳)アブラハムは死んで、「その民に加えられた」

列王記上2:10(口語訳)良い王であるダビデが「先祖と共に眠って」

列王記上22:40(口語訳)悪い王アハブが「先祖と共に眠って」

 

これらの聖句には王様たちの肉体を持たない「魂」や「霊」が天国に行ったとは書いていません。それぞれの先祖と同じように埋葬されたという意味なのです。

 

★     聖書の希望は、霊魂不滅の理論には基づいてはいません。

★     神の超自然的な再創造の御業による人類の復活に基づいているのです。

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マラナ・タ

以上が聖書から、「聖句」による検証です。

数年来の宿題ができました。

この本のお陰です。