ごきげんよう!さわこです。
アダムとエバは、神のようになりたいと思ったので、神から離れて行きました。
そして、神のかたちの代わりに、蛇のかたち(善悪を知る賢いもの)になってしまったのです。
裸であることを知り、恥ずかしくなり、隠れ、いちじくの葉で自分を覆います。
結果として、近くにおられた神から、遠ざかり、神は「どこにいるのか」と二人に尋ねたのでした。
この時から、人間は悲劇と不条理の愚かさの影響下で暮らすことになりました。
人間はサタンという「世の支配者」である「敵」の手中に握られているのです。
(安息日ガイド副読本2022年2期18頁より)
感想
日本人は恥の文化であり罪を知らない劣っている、とルース・ベネディクトの書いた「菊と刀」は、敗戦で自信を無くした日本人の心に入り込みました。
学校の高等教育で、教壇から教師たちは学生に「日本文化の型」は、日本人のその罪意識の欠如がアジア世界への侵略となったのだと語りました。
私は、そう教えられて育った世代です。
観念的に「恥じる思い」は「罪意識のなさ」を証明しているかのように思わされてしまいました。
賢い人たちは、そう教えるのですもの。
実際、例えば「食べながら歩くのは恥ずかしいことですよ、みっともないからしてはいけません」という躾をしない家庭はなかったんじゃないかと思います。
(今では、歩きながら食べる文化が定着して、それを恥じとは思わない人が増えている現実があります。ガラパゴス的な私)
だから、ベネディクトの言葉から、「恥の文化は罪の文化に劣る」と教えられた時、「恥」と「罪」を分けて考えるのは、統合性のない思想に思えてしまいました。
罪とは、神から離れた状態。
神から離れてしまった人が思う恥いる思い。
罪意識を持った人の感受性。
ですから、罪と恥に優劣をつける考え方に、無理がある。
そうは思いませんか。
戦後の文化人たちはそんなことを考えないんだろうか?
とずーっと感じ続けていた疑問が、聖書の創世記から解けました。
聖書を掲げるキリスト教国アメリの思想家ベネディクトのキリスト教文化の欺瞞性が、聖書から示されたように思って、なんだか痛感になりました。
ふふふ、愉快な秋の朝だ。