ごきげんよう!さわこです。


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私の聖書クラスのご家庭で、

小学2年生と4年生のお子さんとお母さまで毎日聖書通読をなさっています。

 

お子さんの感想です。
マルコ11:13〜14
いちじくの木を呪う

イエス様は、なぜいちじくの木を呪ったのか?
まだいちじくの木が実る時期ではなかったのに。
どうしてなのか?

 

良い質問を頂きました。

それで、エレン・ホワイトの「希望への光975-979ページ」

([各時代の希望64章 滅ぶべき民]を読みました。

 

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引用してまとめました。

 

「葉の茂ったいちじくの木を遠くからごらんになって、その木に何かありはしないかと近寄られたが、葉っぱの他には何も見当たらなかった。いちじくの季節ではなかったからである。」(マルコ11:13)

 

イエスが御覧になったいちじくの木は葉が茂っていた。

いちじくは、実が実った後で葉に覆われるのである。

だから、葉の茂ったこの木にはよく熟した実がありそうに見えたのであった。

しかし、どこを探してもいちじくの実は見つからなかった。

 

それで、イエスは「今から後いつまでも、おまえの実を食べる者がないように」(マルコ11:14)と言われた。

 

イエスが無花果の木をのろわれた言葉は弟子たちを驚かせた。

キリストの方法や御業にふさわしくないに思えた。

これまでのイエスのふしぎなみわざは、決して滅ぼすためではなく、回復するためになされたからである。

 

神にとって、滅ぼすわざと刑罰の宣言とは異なったものである。

神が罪の結果を人々に示されるのは、憐れみと愛によるのである。

 

無花果の木がのろわれたのは、実地に示された譬えであった。

キリストの面前で、見せかけの葉を茂らせた実のならない無花果の木は、ユダヤ国民の象徴であった。

救い主は、イスラエル滅亡の原因と必然を弟子たちに示されたのであった。

 

ユダヤ人の宗教は、壮麗な神殿、聖なる祭壇、祭司たちの印象的な儀式があって、外観はまことに美しかったが、謙遜、愛、慈悲に欠けていた。

 

いちじくの園の木には、全部、実がなかったが、葉のない木はイエスに期待を抱かせることはなく失望も与えなかった。葉も茂らせず、実も結んでいないいちじくの木は、異邦人を象徴していた。

神に仕えるという告白もしていなかったし、見せかけの善を誇ってもいなかった。

 

いちじくを呪ったイエスの言葉は、イスラエル滅亡の原因を弟子たちにはっきり示すためであった。

 

ユダヤ人たちは、異邦人たちよりも大きな祝福を神から受けていたので、神からの賜物を悪用することについては責任があった。

ユダヤ人が特権を自慢することは彼らの不義を増すことになった。

 

神が、あらゆる機会と特権をイスラエルにお与えになったのは、彼らの内に自己犠牲・同情・神への熱意・同胞の救いに対する熱意を見たいからであった。

 

しかし、彼らは誇りと自己満足に覆われて、神と人へ向けるべき愛も、また、神から託された真理の宝も、世の人々に与えようとしなかった。

人に奉仕することも拒んで自ら滅びを招いたのであった。

 

実のなっていないいちじくを通して、イエスはユダヤ人たちに自らの罪と呪いを示そうとされたのである。

 

神の恵みがとり去られた時にユダヤ人がどうなるのかを示していたのであった。

 

この警告は、どの時代にも当てはまる。

すべての教会とすべてのクリスチャンにとっての警告である。

 

キリストの憐れみ深い無我の生活を自らの生活の中で実行していないならば、神の律法を実行しているとは言えない。

 

クリスチャンが自分自身を喜ばせるために計画し学ぶならば、すべてが見せかけだけの実のならないいちじくの木と同じである。

 

憐れみにとみたもう神は、実を結ばない木に手入れをしてくださる。

しかし、それでも実がならなかったなら、どんなことも破滅から救うことはできない。

実のならないいちじくの木によって象徴されているのは、自分の運命を決定するのは、自分自身の選びの結果であるという事である。

 

1000年以上にわたって、ユダヤ国民は神の恵みを悪用し、神の刑罰を招いた。

神の警告を拒み、預言者たちを殺した。

キリストが来られた時代にも同じであった。

 

どの時代にも、神と和解する恩恵の時が、人々に与えられている。

しかし、この恵みには限度がある。

 

主は、ありとあらゆる手段を尽くされても、人が、神の御霊の警告を拒み続けるならば、その心は頑なになって、神に応答できなくなる。

 

神の言葉の真理は、人々の習慣や生来の傾向と調和しないので、多くの人々がその光を拒む。サタンにそそのかされると、人々は神の言葉に疑いを投げかけて自分独自の判断を働かせるようになる。そうして、光よりも暗闇を選ぶようになる。

(ヨハネ1:5「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」)

 

キリストの言葉のあらさがしをした者たちは、あらさがしのもとをますます多く発見し、遂には真理である命のお方から離れて行った。

 

今日も同様である。

光を拒む者には、神の御言葉の神秘は永遠に神秘である。

 

神の恵みの一つ一つの証拠、天来の光のひとすじひとすじは、魂を溶かして従わせるか、絶望的な頑迷さをいっそう固くするかのどちらかである。

 

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マラナ・タ

「どの時代にも、神と和解する恩恵の時が、人々に与えられている。

しかし、この恵みには限度がある。」

人間は、神の御愛を、都合よく利用してはいないでしょうか?