ごきげんよう!さわこです。

 

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「私たちは神の教えを誤解しないために自分を信用しないようにする。

しかし、それさえも祈りの課題として主に信頼しなさい。

力の限りに主に信頼しなさい。そうすれば主の聖霊が、主の計画と御摂理の働きを正しく理解できるようあなたを導くでしょう。」

(エレン・ホワイト『原稿集』第6巻225ページ英文)

 

私の感想です。

自分を信用してはいけない、神を信用しなさい。とはよく言われる言葉ですが、それを誤解し誤用するとき、病的にさえなってしまう場合もあります。

自分の信仰はほんものだろうか?

自分は罪と悪に染まっていて神が見えなくなっている。

そんな自分の信仰はカルトかもしれない、などと、自分の所属する教会に対して不安を持ってしまうかもしれません。

 

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また、私はバプテスマの直前に、「クリスチャンになることによって、精神を病んだ人が友達にいました。あなたはまもなく洗礼を受けるそうですね。用心してください」とある賢い方から忠告されました。

32年前のことです。その方を私は信頼していました。

その方のご親切を心に刻みましたが、バプテスマをやめる動機とはなりませんでした。

 

バプテスマを受けてから、つぎつぎと願いが聞かれることが続き、そういう証しをどんどんなさる方もいらっしゃいます。

 

しかし、そうではない人の方が多いのが現実ではないでしょうか?

 

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その苦しみと戸惑いをいだいたまま、教会から去って行く人もあることを知っています。教会に残っている人は、問題が些細なことで生き死に関わるようなことではないのだと。つまり順境人生なのだと思い込んでいるのかもしれません。

 

問題が深刻であればあるほど、祈りがきかれているように思えない、神が共におられるのを感じない。このよう状況に陥るのかもしれません。

そんな時にはどうしたら良いでしょうか?

 

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身近な人々が自分の上に神様がなしてくださったという証しを聞くことが苦しく辛い時があります。

今を生きるクリスチャンたちの上にある証しは、それぞれなのです。

人それぞれなのです。

 

あの人の聞かれた祈りと自分の祈りや状況が酷似していても、同じ奇蹟が起きるわけではないのです。

 

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その違いは何だろう?と考えると、自分を責めはじめるのです。

あの人の信仰が本物で、私の信仰は偽物だという事が証明されたのだ・・・とか。

あの人は神様にクリスチャンとして受け入れられているが、私は偽クリスチャンとして退けられたのだ・・・とか。

あの人の信仰は確かな者で、この人の信仰はちゃらんぽらんだから・・・とか。

不安は倍増します。

 

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「時があるのですよ。あの人にはあの人の時、あなたにはあなたの時、神様にゆだねて待ちましょう」と、祈りがきかれて安定した教会生活を送っている信者たちからの言葉は、慰めと励ましとなるのでしょうか。

 

試練の1年目の人と試練の数年目の人と、試練の数十年目の人と、同じように慰めの言葉となるのでしょうか。

個人的な証しには限界があります。

 

聖句を引用しても、なお、聖句の理解に差がありますから、「神の御言葉」であれば、誰にもぴったり慰めが提供されるというふうにはすんなりいくものでもないのです。

そこで、疑問と苛立ちが湧きおこるなら「不信仰者」のラベルを自他ともに貼り付けかねない。

 

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神様の沈黙の時を、どう過ごせばよいのでしょうか。

 

そのような時も御言葉の約束を信頼すること、また同時に過去に神が私たちにして下さった御業を思い起こすようにと聖書は書いていますが、しかし、神は、私には、自分の上には何も起こしてくださらない。そればかりか最悪なことばかりだ・・・。

 

そんなとき、慰めとなるのは「ヨブ記」や「嘆きの詩編・呪いの詩編」ではないでしょうか。

 

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母様は、友人からヨブ記を読むように勧められて、慰めと希望を得てクリスチャンになられたのだと知りました。

 

ヨブ記の38章39章に、それまで沈黙していた神様の言葉があります。

神様がどういうお方なのかをヨブに神ご自身から知らしめてくださったのです。

 

38:2「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。(経綸の意味:神が世界と歴史を支配し導いておられるということ。摂理。神のみわざ)

 

38:4「わたしが大地を据えた時、おまえはどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」

 

40章1節2節 「ヨブに答えて、主は仰せになった。全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責め立てる者よ、答えるがよい。」

 

3節4節5節 「ヨブは主に答えて言った。わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張しません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」

 

そして神は40節の6節目から、41章の26節の終わりまで神は語り続けてくださいます。

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ヨブの周囲の信仰者たちの言葉は、あれこれと慰めから譴責へと次第に変わって行く。神様とは、かくなるお方だとか、友人たちは神学を語り始める。そしてヨブを「あなたの信仰は違っていることが証明されたんじゃないか」と、友人たちの持つ神学で諭すのです。

 

ヨブもそれに立ち向かいます。ディベートっていうのですか、それが繰り広げられるんです。延々と。そして、神の長い沈黙が続きます。

 

しかし、神は聞いていらっしゃる。友人たちの言葉を。神様が沈黙しているからと言って、友人たちの意見に賛成しているのではないのです。

やがて最後にそれがわかるのです。

 

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ヨブ記42:5-6

「あなたのことを耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」

 

そして、ヨブが自分を苦しめた「友人たちのために祈った時、主はヨブを元の境遇に戻し、さらに財産を倍にされた」(42:10)とあります。

 

「主はその後のヨブを以前にもまして祝福された」(40:12) 

失った息子7人、娘3人、同じ数だけの子どもたちをもうけて、その後140年生き、4代の先まで見ることができヨブは長寿を保ち老いて死んだ」で、終わっています。

 

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勿論、つっこみどころはあります。

初めのヨブに毎日執り成しの祈りをしてもらっていた10人の子どもは、サタンの仕業によって死んでしまった。

その子供たちはどうなのか、新しく同じ数の子供をもうけたからと言って、亡くした子供への思いも悲しみも癒されるだろうか?

子どもたちは死ぬときに、何故?何が起こったのだ?と思わなかったでしょうか。

人間ならだれもが、疑問に思うところです。

 

しかし、ヨブ記にはそこは一切書かれていません。

書かれていないことに推測・憶測を重ねるのは空しいことです。

書かれていなくても神様のご品性を信じたなら、神さまが必ず善きに計らってくださると、神さまの愛を信頼し通す信仰の道が開かれるのだと思います。

 

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「問題が深刻であればあるほど、祈りがきかれているように思えない、神が共におられるのを感じない。このよう状況に陥るのかもしれません。そんな時にはどうしたら良いでしょうか?」

 

この質問に、私は、聖書のヨブ記から答えを見いだしました。

多くの詩編からも慰めをもらいました。

 

詩編40章を声に出して数回朗読しました。

最近はなかなか長い箇所を暗誦できなくなっています。

暗誦しようという気負いを持てない自分に問題があるかもしれませんが、定期的に暗誦したい詩編40章です。

 

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信徒の証の重要性がしばしば語られます。

それは私にもよくわかっています。

 

しかしそれとともにヨハネ5:39の聖句が浮かぶのです。

 

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ」

 

聖書によってイエス様に出会い、イエス様の御臨在にふれ、聖書によって祈りを与えられ教えられることで、あらゆる人生の嵐に対応できる『イエスさまの証』に焦点を合わせたいと思います。

 

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マタイ16書の1節から3節まで読むと分かりますが、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願ったファリサイ派とサドカイ派の人々に対してのイエスさまのお言葉が4節にあります。

 

マタイ16:4

「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」

 

私は、ファリサイ派やサドカイ派とは違うと、言い張れるのでしょうか?

その精神は、私の中にひとかけらもないと胸を張れるでしょうか。

 

ひたすらイエス様から目を離さないために私は、聖書の中にいらっしゃるイエス様を御言葉で認識し続けるのです。

 

机の前だけではなく、日ごとに変わる空の色を眺めながら、深呼吸しながら、御言葉を味わう。

 

イエス様の御手に確かに届いているという確信をもって、私の嘆きを天の至聖所のイエス様に向かって投げる。ゆだねるのです。

 

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マラナ・タ

今朝は5時半から散歩に出ました。

心地よい空気でした。

空には、見事な雲が、広がっていました。

神様の創造の御業に圧倒されました。

21世紀のヨブたちに、神様はご自身を現してくださっています。