ごきげんよう!さわこです。

 

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●労苦して闘う

コロサイ1:29

「このために、わたしは労苦しており、わたしのうちに力強く働く、キリストの力によって闘っています」新共同訳

 

「わたしは、このためにわたしのうちに力強く働いておられる方の力により、苦闘しながら努力しているのである」口語訳

 

このためとは?

口語訳で27節28節を引用します。

「神は彼ら(神の聖徒たち)に、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。わたしたちはこのキリストを宣べ伝え、知恵を尽くしてすべての人を訓戒し、またすべての人を教えている。それは、彼らがキリストにあって全き者として、立つようになるためである。」

 

パウロが労苦して闘う理由であり、苦闘しながら努力する理由が書かれています。「栄光に富む神の奥義をユダヤ人にも異邦人にも宣べ伝え、キリストにあって信じる信仰を持ってもらうために、キリストの力によって闘うのである」ということなのです。

そこなんです!大事なところは!

 

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●自力救済信仰という思い込み

私たちは、「闘う信徒」を見ると「自力で救われようとしている」と、決めつけてしまうことがある。

自分に向けると、「自分の力で頑張ろうとしていました」と「悔い改めができていませんでした」と自己批判となる。

 

他者も自分を傷つけてしまうこの傾向はどこから来るのだろうか。

アドバイスをしているつもりになったり、悔い改めているつもりになったりする。

 

この『つもりになってしまう思い』は、人間的の肉なる不毛な思いに思えて仕方がない。クリスチャンたちの「教会用語」として定着してしまっていいのだろうか。

 

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●半分だけ正しい

半分だけ正しい信仰理論に惑わされないように祈り続けなくてはならない。

紙幣は表も裏も印刷してある。片方だけならば「偽札」だ。

硬貨も両面ある。表だけでも裏だけでも「贋金」だ。

ましてや、聖書の半分だけを強調してしまう時、私たちは無意識のうちに、十字架も恵みも矮小化しているだけでなく、半分だけ正しいキリストを伝えていないだろうか。

偽札贋金があるように、偽キリストも世の中にはうごめいている。

 

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●キリストと共に闘う

私たちが闘う時、戦わねばならないことはいくつもある。

その戦いは、キリストの力によって(キリストに頼って)自分をも闘う闘いなのである。

それは表裏一体としての「信仰」と「行い」であって、これとても重要なこと。

 

「私の意志が、神様の意志と一つになって、神様の御意志に屈服できますように」と、日々の祈りとしなくてはならない。

 

神様によって与えられた「自由意志」が神様から離れて、自由奔放になっていき、サタンの網に捕獲されてしまうことのないように、「闘い」の祈りが必要なのだ。

 

そのために、イエス様そのものである聖書を繰り返し、繰り返し、聴く・読む・声に出して詠む・思いを巡らせる、書きとめていく。

 

そんな中で私たちの祈りの質が変えられていく。

 

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●聖書を学ぶツール

聖書を詳しく楽しく学ぶためのいろいろなツールが豊かにある今の時代。

あれもこれもと、欲張りすぎない。

人それぞれ、個性、環境、使命が違うことを認めなくては。

何を選ぶか、情報量が多くて、選択肢がありすぎて、昔のように単純ではない。

ひとつの方法に取り組む途中で、他の方法にも目移りしてしまう。

 

一度、取り組んだなら、それに集中するという無骨さも必要かもしれない。

私は、22年前に1年で終わらせるという「聖書通読」に取り組んで来た。

20年間、毎日、続けて、ノートに気づきを書くという事を続けた。

数年目に自分の方法が「デボーション」と呼ばれていることの条件を満たしていることを知った。そのことは、やる気をますます起こした。

時々、できない日もあったのだが、2,3日の内に遅れを取り戻していつものペースに戻った。実に祝福された20年間であった。

このまま、死ぬまでこの方法が続くだろうと思った。

 

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●聖書通読という方法の挫折

ところが21年目に、うまくいかなくなった。

理由は分からないのだけれど、1週間分が溜ってしまった。

1週間も滞るという経験は初めてだった。

追いつかない。焦ってしまうと、集中して読めなくなる。

そして、遂に「毎日の聖書通読をする」という方法をあきらめることにした。

 

聖書の学びは「通読」だけではないので、礼拝メッセージから、祈祷会の聖書の箇所から、他にも気になって調べ物をしているうちにあちこちと読み耽る。

気になったことは「タイトル」をつけて、レポートに仕上げていく。

そのときにも、聖句か聖句へと導かれて、いくつもの聖書を広げてしまう。

EGホワイト著作集も、必須。

通読ができない日にも、この学びとレポートを書く作業は止まらない。

 

「挫折してしまったよ、20年目に」と自嘲気味に信仰の友に打ち明けたら、

「それは、挫折じゃなくて、卒業なんじゃないの。毎日の通読という方法を20年で卒業したんだよ。さわこちゃんが聖書そのものから卒業することはありえないもの。21年目からのものが与えられるんだろうな」と、有難いことを言ってくれた。

 

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●選択と集中

私は20年間、「聖書通読」という一つの方法を選択し集中した。

毎日、イエス様の語り掛けを聞くことができた恵みの日々だった。

それを、誰かにシェアしたくて、ブログという形で2014年の7月に「緑のオリーブ日記」を始めた。丸8年が過ぎた。今も続いている。

 

聖書通読+デボーションで、信仰の筋肉をつけてもらったかもしれない。

信仰の筋肉は与えられる試練によってもついて来る。

 

それはまた、神の意志に我が意志を重ね溶け込ませていくための至福の時でもあった。

何故なら、そこに自分を超えた神の力(強い御意志)が、聖霊が与えられるという経験を毎日できたからだ。

 

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マラナ・タ

「毎日の通読」を卒業した今も、次なる方法で、キリストの道(この道)を毎日歩いている。