ごきげんよう!さわこです

 

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「創世記」に一貫していることは、

神に見捨てられたかのような困難な状況にあってさえ、

神は共にいてくださるということです。

 

どのような状況下にあっても、

神を信頼する。それが信仰の基本です。

 

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そこから始まるのですが、

そこで、キリストの神様に見切りをつけて

別の宗教や宗教以外のetcに目を向けてしまう人と、

なお、キリストに留まる人と分かれます。

 

また、成功と繁栄の中で、

自分の才能と努力に誉れを帰す人も、

その成功をアピールすることで事業を起こす人も、

その儲けを世に還元することで、生きがいを持つ人もいます。

 

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また、成功と繁栄は

「〇〇さんのおかげです。皆さんのお陰です。世間様のおかげです。私には何の力もありませんでした」と言う人もいます。

 

自己を誇る事を戒める「謙遜」「奥ゆかしさ」に価値を置く日本文化の表れだと思います。

こうした日本の伝統文化の中に、聖書の教えやキリストの心を垣間見る時です。

 

 

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キリストの心で、聖書を読むことを教会で教えて頂いて、

生ける神キリストの御臨在を体験して、

聖書の神様に捉えて頂きました。

 

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創世記37章から始まるヨセフの物語の間に、

ユダとタマル物語(38章)が挟まれている理由が、

今朝は見えたように思いました。

 

タマルの騙しと不義の行いを、ユダが「タマルは正しい」と認めた不思議です。

 

それは、ユダの裔にメシアが生まれるためには、

こんな危機があり、神の戒めを破り、

神を汚したと非難されてしかるべきあさましい行いの中に

「正当な血筋を絶やさない」というメシアの誕生に向けて

神様の計画は着々と前進しているよ、と、知らせているのだと思いました。

 

 

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