ごきげんよう!さわこです

 

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「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう・・・わたしの軛を負うてわたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」

マタイ11:28-30

 

キリストの軛をつけることは、キリストのそば近くに留まること。

キリストの軛を負うとは、キリストと完全に結合すること。

キリストと共に軛を負うとは、自分の重荷をキリストが負うてくださるということ。

キリストの軛を負うとは、私流を手放しイエス様にお従いするという意味。

(軛とは、複数の牛が畑を耕す時に調子を合わせ動きやすくするために首につける木製の道具である。軛をつけられると、牛は勝手気ままに動くことができなくなる。)


「また、自分の十字架をとってわたしに従って来ない者はわたしにふさわしくない」マタイ10:38

                        

「それから、イエスは弟子たちに言われた。だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」マタイ16:24

イエスに従いたい者は、自分を捨てよ、私流を捨てよ、と御言葉は言います。
私には「イエス様の軛」と「自分の十字架」とは、とても関連していると思えるのです。
とちらも、神様の意志に自分の意志を明け渡す、という意味ではないかと思うのです。

♪イエス様、あなたを愛しています。あなたの後をついていきます。どこまでも♪♪

キリストの軛をつけ、自分の十字架を負うて生きる者こそが、この歌を歌うにふさわしい。

 

E・G・ホワイトは、こうも書いています。
聖霊が私たちに注がれるとき私たちの魂は安らぐ。

そして、柔和とへりくだりを学ぶことができる。

しかし、自分の意志とやり方を放棄するというのは、実は大変困難な闘いなのである。
誇りと利己心と野心が克服されなくてはならないからである。

私たちの意志はキリストの意志に飲み込まれなくてはならない。
キリストとともに軛を負うことは、失われた人類のための苦しみをキリストとともに担うことである。


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マラナ・タ
どのような環境、いかなる状況であっても、今、私が置かれている場所はキリストの学校なのです。