ごきげんよう!さわこです。

 

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「この時アブラハムが目を上げて見えると、

うしろに、角を薮に掛けている一頭の雄羊がいた。

アブラハムは行って、その雄羊を捕え、

それをその子の代わりに燔祭としてささげた」

         (創世記22:13)

 

安息日学校聖書研究ガイド2022・5.16より

十字架のはるか以前のモリヤ山で、

木の茂みに角をとらえられていた犠牲の小羊は、

まさしくイエスを指し示していました。

 

「神がアブラハムにその子を殺すように命じられたのは、

アブラハムの信仰を試すと共に、

福音を現実的に強く印象づけるためでもあった。

あの恐ろしい試練の暗黒の数日間の苦悩は、

人類の贖罪のために払われた神の大犠牲を、

アブラハムが自分の体験によって学ぶために神が許されたのである」

    (人類のあけぼの上161ページより)

 

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さて、私の疑問と感想

 

聖書には「雄羊」なのに、ガイドには「小羊」。

確かに角を薮に掛けている雄羊は、イエス様の型だから、

「小羊」とガイドにあるのは納得します。

 

じゃあ、なぜ、聖書は「雄羊と書いたの?」

この疑問を持ったまま、副読本を読んでいたら、

64頁の上段、中ほどに

 

「聖書の著者にとって、イサクの出来事全体は

・・・贖罪の日に至ります。

・・・終末論的贖罪の日に適応していますとありました。

 

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そこから、そうだ!レビ記の16章だ!と、急いで開きました。

 

ここでは雄羊が燔祭のために登場しています。納得。

 

「十字架」の贖いから「至聖所」でのイエスさまのお働きまでが、

モリヤの山で、見通されて書かれている、ってことなのね。すごい!