ごきげんよう!さわこです
2022.5.16の安息日学校聖書研究ガイドによれば、
ヘブライ語の動詞をそのまま訳せば、
「神はご自身を小羊として備えられる」
という意味になります、と書かれていました。
「備える」は、字義通りに訳せば、
「自身を備える」なので、ここには、
人類救済の計画の本質が示されているのです、と。
14節には、
「アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)と言っている。」
と、あります。
私は、この場面から「主の山に備えあり」と実にシンプルに、覚えてしまいました。
「主の山に備えあり、よ。自分の力で頑張ろう、なんてしちゃダメ。神様に全部お任せして、一切をゆだねましょう。」
こんな勧告を聞いて来たことはないでしょうか?
日本人的な抒情的メンタルに、フィットする信仰マジックのような気がします。
こう誰かが言ったら、ほかの誰かが、即座に反応して、アーメン!
となります。まるで、水戸黄門の印籠みたいな現象が起きます。
主が備えてくださるのは、主ご自身が、十字架刑にかかられることの預言であることを、意識したうえでの言葉なんでしょうか。
全能の神様が、いつも備えてくださっているから、大丈夫。
「思いわずらうことなかれ」なんですよ。
私たちの具体的問題は、万事、キリスト教の神様が、解決してくださいますから、私たちはイエスをキリストと信じることだけでいいんですよ。それが、主の山に備えあり、よ。
そう思い込んでいた時期が、私にはありました。
実に安易な短絡的な理解をしてしまっていました。
それは、「悲しむ人とともに悲しむ」(ローマ12:15)ことの出来ている人の言葉なのでしょうか?
人が、悲しみや苦悩を感じることをシャットアウトしてしまう「教会用語」になってしまってはいないだろうか?と思うようになりました。
「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)
ともに悲しんでくださるイエス様のおこころを、置き去りにしてはいなかったでしょうか。
今朝は、ガイドの説明から、目が開かされました。
悔い改めをいただきました。
「神様の許される苦悩は、苦悩以上の祝福をもたらします」
そこを捉えさせていただきました。