ごきげんよう!さわこです。
藤が咲く頃になりました。
2022.4.12 聖書研究安息日学校ガイドより学んだことです。
神様の問い掛けは、人に自分の心を見つめ、自省と内省を促します。
カインとアベルは、既に両親アダム・エバを通して戒めとして教えられて来た神の律法を思い起こすように、神様は問い掛けるのです。
悪い思いを持った時、それを実行に移すことのないように、問い掛け、諭すのです。
人が悟ることができるように。アダムとカインが悟るように。
今朝のガイド(2022.4.12)は聖書の行間を解説してくれています。
私はいろんな機会に、世の中の知者や識者たちの解説する創世記1-4章を読んできました。
しかし、それらは、神様の本質を誤解していると思います。
疑いと批判の精神が根底にあって、それぞれの時代性・風潮に影響された読み方をしていると思います。
聖書を聖書から理解する。
神の本質が愛であることを大前提とする。
創世記三章で、神様がアダムに問い掛けたように、カインにも問い掛けて、弁明・反省・お詫びする機会を提供して、立ち帰りの道を選択する機会をくださるために、神様の方から歩み寄ってくださる。
ここにも神の愛があることを学びました。
神さまのご品性・ご性質である愛の方法。
調査審判は、神自らが、アダムに、カインに語り掛けることによって、創世記ですでに登場しているんですね。
このことからも、調査審判(再臨前審判)は、「神は愛である」ことを示しています。
調査審判(または再臨前審判)は、SDA独特の聖書教理だと聞いて来ましたが、聖書に忠実な理解だと私は思います。
最後の審判(または裁き)から、神は恐ろしい方だという印象にとらわれている人もいます。
その恐怖を払拭するために、「旧約聖書の神は厳しい神だけれども、イエス・キリストによって「神の御子」として現れた新約聖書の神は慈しみ深いやさしい神様なんですよ。」というふうに教える信者もいると聞きます。
しかし、そういう教えは、神の御品性(ご性質)を歪曲してしまいます。
辻褄の合わないことだらけの聖書に直面してしまうことになります。
マラナ・タ
辻褄の合わない、逆説の、パラドックスの中に、探せば、叩けば、見出せる神の宝、神の愛の本質があります。