ごきげんよう!さわこです。
昨年(2021年)の4月7日のデボーション記録より
EGW証の書セレクト集「今日の光」より
信仰は、私たちの救いの根拠ではないが、大いなる祝福である。
見る目、聞く耳、走る足、つかむ手と同じ。
それは手段であって目的ではない。
信仰、しかも生きた信仰は、全人格をイエス・キリストの守りと支配に委ねる魂の行為である。
キリストを信じる者たちは、キリストの内に住み、キリストは、信仰によって、信じる者たちの内に住んでくださいます。
信じる者は、自分の魂と体を神に捧げ、自分に委ねるられているものを、キリストが守ってくださるのです。
御再臨の、かの日まで。
永遠の命に救われるかの日まで。
信仰を働かせることが、それを保持する手段の一つです。
信仰の筋肉は、信仰の運動機能は、修練・活動によって発達します。
重要なことは、私たちの魂を信仰の雰囲気で包むことです。
それは永遠の運命に関わって来ます。
私たちは、自分の選択行為による影響力に従って、責任を負うことになります。
責任を負うとは、救われないという意味ではありません。
悔い改めて、神のもとに立ち帰るなら、それ以前の選択が間違っていようとも、神様との関係は修復されます。それ自体が救いです。
選択の結果としての自分の言葉と行為に対しての責任は、自分に返って来ますし、他者への影響力もあるのです。
マラナ・タ
知らずに犯した罪とは、無意識のうちの選びとその結果としての影響による現象としての艱難辛苦に遭う悲惨さ、かもしれない。
その艱難辛苦をも、神様は救いへと用いてくださる。
聖書は、それを教えてくれます。