ごきげんよう!さわこです。

 

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安息日学校聖書ガイド

4月4日をまとめてみました。

神はアダムに

善悪を知る木の実を食べることを禁じました。

サタンはその実を食べれば神のようになるのだ

と、言って、食べるよう勧めました。

不死と神のようになるというこの二つの誘惑は、

古代エジプトとギリシャ宗教の根底にある思想です。

このような思想は、

いつのまにかユダヤ・キリスト教文化の中に

浸透して霊魂不滅思想を生み出しました。
そして多くの教会の中に今日もなお存在しています。

 

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4月5日のまとめ

 

アダムとエバは禁断の実を食べた後、神から隠れました。

 

ガイドより引用

「罪を犯した後、二人からは、神の臨在の反映である義の衣が取り去られました。

アダムとエバは、自分たちが裸であることを知ります。

そこで、自分たちの腰の覆いを作ったのでした。

この「作る(造る)という動詞は、この時までは、創造主なる神にだけ用いられています。」

 

ですから、その言語の用い方ひとつからも、

彼らの無花果の葉っぱで腰覆いを作るという行為は、

「あたかも自分たちの罪を覆い隠すために、

創造主に取って代わろうとしたかのようであることがわかります。

 

この行為は、パウロが非難している行いによって義とされようとするものであります。」

 

(ガラテア2:16)新共同訳

「けれども、人は律法の実行ではなく、

イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、

私たちもキリスト・イエスを信じました。

これは、律法の実行ではなく、

キリストへの信仰によって義としていただくためでした。

なぜなら、律法の実行によっては、

だれ一人として義とされないからです」

 

※口語訳と新改訳によれば「キリストの信仰」と訳されています。

 

「神は二人に近づいて、「あなたはどこにいるのか」(創世記3:9口語訳)と問いかけます。

後に、神はカインにも同じように問いかけます。(4:9)

 

もちろん、神はこの問いの答えをご存知でした。

 

神のこれらの問いは、罪の意識を引き出すためであり、

彼らがしたことを自覚させるためでしたが、

同時に、彼らを悔い改めへと導くためでもありました。

 

人が罪を犯した瞬間から

主は彼らの救いと贖いのために働いておられたのです。」

 

再臨前に調査審判が天において行われますが、

それは、裁判官による罪人に対する審問で始まります。

この審問は、悔い改めを促し、最終的な救いへと導くためのものです。

 

これは聖書全体を通して一貫した主題です。

 

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「あなたはどこにいるのか」とアダムとエバへの問いかけ。

「あなたの弟アベルは、どこにいるのか」というカインへの問いかけ。

この問いかけを、

悔い改めを促し、最終的な救いへと導くためのものである審問であるという聖書理解には、

頑なな被造物である人間へに対しての神の忍耐強いお取り扱いに、私はひれ伏す思いです。

 

神に知られることとなったアダムとエバの神への背信行為。

罪が介入してしまった罪人にありがちなことがおきました。

アダムとエバは他者に責任転嫁をするのです。

 

アダムはエバのせいであると言い、

エバは蛇が騙したからだと言う。

 

この「だます」(創世記3:13)というヘブライ語の「ナーシャー」は、

人に誤まった希望を与え、その人が正しいことをしていると信じさせることを意味します。

 

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自己正当化する人間に語り掛けてくださる神。

神の愛は「強制」しない。

神の愛によって、自主性を引き出してくださる。

神の愛は、神の御意思にかなうことを人間が選択できるように、忍耐をもって導かれる。

 

神の忍耐を悪用するならば、その人間の心は、ガチガチに頑なになってしまう。

 

マラナ・タ(主よ、来たりませ)

誤まったキボウに囲まれているのが私たちですね。

いつもイエスと共に居ることなしには、

再臨を待ち望むことはありえないですね。