ごきげんよう!さわこです。
信仰によって生きるということは、
自分がどこへ導かれようとしているか全く分からなくても、
導いてくださる方のことは愛しているし、
よく知っている、という事である。
それがまさに信仰による生活というもので、
知性や理屈には基づかず、
「行け」と呼びかける方を知っているからこそ、
できる生き方なのである。
信仰の根は、
人格を持った神を知ることにあるが、
最も恐るべき罠の一つは、
信仰さえあれば必ずこの世での成功に導いてくださる、
という考え方である。
信仰生活の最終段階とは、人格の完成である。
それは、聖化されるということではなく、
むしろ、聖化のはるか先にあることであり、
試練を通り、それに耐えた信仰のことである。
アブラハムは、聖化された人の代表ではない。
むしろ信仰生活の代表であり、その信仰は、
試練を経て、まことの神の上に築かれた信仰であった。
確かに、「アブラハムは神を信じた」ローマ4:3のである。
以上
オズワルド・チェンバーズ「限りなき主の栄光を求めて」3月19日より抜粋
感想:
「最も恐るべき罠の一つは、
信仰さえあれば必ずこの世での成功に導いてくださる、
という考え方である。」
私は、恐ろしくも、この世での成功を求めて、キリスト信仰に期待をかけていた。
それは、事業の成功とか、有名な人になりたいとか、
我が子たちを全員東大に(ハーバードに)入学させたいとか、
そういう成功ではないにしても、
小市民的な生活の安定であった。
社会的落伍者になりたくないとか、
回復不能な病気や事故から守ってくださいとか。
そういう意味での世の成功に導いてもらいたいと願っていた。
成功するには、努力+信心(祈り)だと思っていた。
自分一人の祈りではなく、教会をあげての祈りが必要のように思っていた。
そうすれば、祈りはきかれて、世の成功も与えられて、『証し人』になるのだと思っていた。
そして、世の人に羨まれたとき、
「いいえ、ワタシの努力ではありません。全部神様のお陰ですよ。」
といって、神様に栄光をお返しすることの出来る謙遜な人格者になれるのだと。
そして、「キリストの神様を信じましょう。そうすれば、幸せになりますよ」
と伝道できる人になることに憧れていたのだった。
そうした、小市民的な願望を掲げてキリストを信じることや、伝道することの中に、自己中心的な罪が内在しているとは、思ってもいなかった。
「最も恐るべき罠の一つ」に、完全にはまっていたのだった。
マラナ・タ
キリストは、わたしの内に入ってくださって、語られました。
「心得違いをしていたのだね。それらを手に入れることが、信仰の成就ではないことを、知ってほしいと望んでいたのだよ」