ごきげんよう!さわこです。
今朝のデボーション。
箴言19:20 をこう読みました。
「イエスに聞き従い、イエスを受け入れよ。永遠の命を得ることができるように」
ガラテヤ5:16は、こう読みました。
「聖霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、イエスの心で満たされます」
エフェソ5:21は、こう読みました。
「キリストに対する畏れの心を忘れてしまうなら、
『姦淫してはならない』の戒めのある十戒に反してしまう人に、
互いに支え合う(愛し合う)ことのできない人になってしまいますよ」
こういうふうに読めるように
導いてくださるご聖霊に満たされるなら、
キリストと一つになっているんですよ。
我が娘よ、我が息子よ、我が子たちよ、
と言われる御父の御声が、
一連の日めくり聖句から聞こえてきました。
そもそも、ことの始まりは、この聖句を深読みしたことから。
十戒の第7条の「汝姦淫するなかれ」
ここだけを取り出しても、道徳教育・信仰教育につなげることも出来る。
しかし、クリスチャンが、人を裁くために用いるようなことさえ起きる。
聖書の本質的なテーマではなく、
あれしてはいけない。これしてはいけない。
に、終始してしまうならば、イエス様の時代のファリサイ派や律法学者に変わりはない。
イエス様の御霊に満たされている人が、
「姦淫」するだろうか。
「偽証」するだろうか。
「殺人」するだろうか。
「盗み」をするだろうか。
「父母をないがしろ」にするだろうか。
マラナ・タ
聖書のテーマがすべて一貫したものであるのです。