ごきげんよう!さわこです。
キリストの昇天は、主に従う者たちが約束の祝福を受けることのしるしであった。
キリストは天の門に入って行かれ、天使たちの讃美のうちに王座につかれた。
この儀式が終わるとすぐ、聖霊は豊かな流れとなって、弟子たちの上に降った。
キリストは永遠の昔から父と共に持っておられた栄光をお受けになった。
ペンテコステ(五旬祭)の聖霊降下は、贖い主の就任式が完了したことを知らせる天からの通報であった。
イエスは、祭司、また王として、天と地の全ての権威を引き継ぎ、油注がれた者(キリスト)となられたしるしとして聖霊を送られたのであった。
以上、安息日ガイド2022.3.4より
・・・感想
五旬祭をギリシャ語でのペンテコステの祭りと表記しているのか、ずーっと気になっていました。
創世記1:2 「・・・神の霊が水のおもてを覆っていた」とあるように
三位一体の第三位格の御霊として、世の始まりからすでにおられるのに、なぜ?
なんだか、別物の特別なイベント的に思えてしまって、
五旬祭でよいのに、なぜあえてペンテコステとギリシャ語にしてしまうんだろう?
過越祭・五旬祭・仮庵祭、すっきり明確になるのにと思っていました。
私は聖書通読を、ユダヤの祭にフォーカスしながら繰り返し、
ユダヤの三大祭りの意味することを
聖書から抜き出し整理しまとめて行くうちに、
祭りの持つ意味・重要性が次第に理解できていきました。
そのまとめの作業によって私は、
世の始まる前からおられるキリスト・イエスが地に降られ、
十字架、復活、昇天、さばき、再臨なさるというイエスの
ご生涯のストーリーそのものだと分かるようになって、
私の疑問は、聖書が答えてくださいました。
水のおもてを覆われていたと表されている聖霊様とは、
キリストを信じることによって、キリストが昇天されてから、
信じる者たちが聖霊を受けさせて頂ける聖霊様として理解できるのです。
「神の霊が水のおもてを覆っていた」との創世記1:2
ここが、ヨハネ16章によって理解が助けられて
「神の霊=聖霊・御霊」のことが、さらにわかるのですね。
旧約聖書と新約聖書は互いに補完し合っていることがここでも分かりました。
イエスキリストの天での承認式が終えられたという証拠としての聖霊の注ぎは、
イエスを救い主(メシア、キリスト)と信じる者に、
イエスの福音を伝えたいと願う者たちの伝道の力となるために
御霊によって注がれるということなのですね。
旧約聖書での五旬祭が、こうして新約聖書によって成就されるのです。
五旬祭には、神様はモーセにシナイ山で十戒をお与えになりました。
十戒とは御言葉の集約されたもの。
御言葉とはイエス様ご自身(ヨハネ福音書1章より)御言葉(聖書)に立つ教会の成立。
聖霊の豊かな降臨によって、聖霊に導かれる教会の誕生。
その預言が旧約聖書には記されている。
旧約聖書での過越祭と五旬節は、
旧約時代のイスラエルの民にとっては、
リアルな現実でありながら、同時に
預言として必ず成就する「型」なんですね。
過越祭も五旬節も、ナザレのイエスが、
ヘブル人(イスラエル人・ユダヤ人)たちが待ち望んできたメシア(キリスト)。
先祖から先祖へと言い伝えられて来たメシアの到来を
ユダヤの祭りによって、聖書によって確認することで、
キリスト教会が生まれることも五旬祭で預言されていた。
マラナ・タ
ペンテコステの聖霊降臨とは、こういうことではないでしょうか?
私は、このように聖書から理解するようになりました。
聖霊を、異言を語る力あるエネルギーという事だけに閉じ込めることはできないのです。