ごきげんよう!さわこです
 
image
 
詩篇119:130からのデボーション  
「御言葉が開けると光を放って,無学な者に知恵を与えます」
 
この聖句に関して「希望への光」の索引をE・G Whiteの証の書を頼りに読んでいたら、まさに「御言葉の光が開け」ました。
 
昨日から、黙想を続けさせられております。
私が続けるというよりも、主が私を招いて、強いらされるようにとさえ思われました。
 
 
image
 
御言葉が開かれるとは
 
① その御言葉の理解を深めること、御言葉そのものが迫って来ます。
 
② 深まるに連れてイエス・キリストとの関係性が強くなります。
  私の内に来てくださいます。
 
③ ウィクリフやルターの実例を通して、御言葉の光が開かれると、何が起きるか、が明らかになっていきました。 
それは、努力・忍耐・識別・献身できる者として、主ご自身の栄光のために、主が信じる者(従う者)に、なされることなのです。
福音宣教のために、具体的・実際的な行動を取れるように、天来からの知恵が与えられることです。   
死をも恐れない力が与えられることです。
主の言葉の光の内を歩むことによって、信じる者の人格(品性)がルターやウィクリフたちのように変えられることがわかりました。
 
④ ウィリアム・ミラーを通して、
いわゆる神学者ではない一農夫であるミラーであっても、神の真実を知りたいと求めて、聖書にそれを求めて探る者には、聖書自身が真    理を開かれるということを確認できました。
「求めよ、さらば与えられん」等々の御言葉の成就がありました。
 
ミラーの研究は完成されてはいなかったが(1844.10.22の大失望)そのことをも聖書は預言していましたし(黙示録10:10「口には甘く腹には苦い」)、それを通して、光が開かれた。
そして、SDA教会の誕生。
 
「光の子らしく歩みなさい」
主の光は漸進的に(徐々に、段階的に)与えられる。今与えられている光は全てではない。それは、始まり、途中に過ぎない。
足元を照らすだけではなく、先に歩む目印でもあると。
 
⑤ 詩篇119:130を、各信徒が、自分の救いのために受け取ることにとどまらないで(満足しないで)、この御言葉に生きていく(献身する)決意と実践に導いてくださる御霊の働きに我が身を委ねること、それしかない。 
 
それをさせてください、主よ。力も知恵もない者です。愛も足りないものです。あなた様からそれらをください。
 
image
 
私たちは、まず、「なにかをしようとする」「その何かに熱情を注ぎたくなる」
こうした自分の思いを「献身」と捉えてしまう誘惑さえある。
 
しかし、行動に飛び出す前に主のもとに行かなくては、主のもとに留まらなくては。
「すべきことを主よ、お示しください」
 
あれこれと思う私の「我」の強さが、あなた様の御声を聞かなくなってしまうことのないように。
「我」がイエス様との間に隔ての壁となってしまうことがないように。
 
ベタニヤ村のマルタのことを思い出されました。
ルカ10:42「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリヤは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
 
ここから、マルタは行いの人、マリアは御言葉を学ぶ人、このように対立させて、イエス様はマリアのようであれ、と教えていると考えるのではなくて。
右か左か、AかBか、どちらが良くてどちらが良くないかとか、そういう二者択一的な対立構造での思考回路に入ってしまうことのないように。
 
image
 
良き行い、良き奉仕、それは、自分の信仰の実ではない。
御霊の結ぶ実(ガラテヤ5:22)
それを信仰表明に利用することではない、と思いました。
それを自分の善き行いによって、クリスチャンアピールしてしまうなら、主の栄光を自分がかすめ取ってしまうことではないのか?
 
イエス様の信仰が私の内に満ちてくる時、溢れて来るイエス様が、なすべき行いを、その人の個性に応じて与えてくださる。
その人の思いではなくイエス様の心として。
 
マルタの献身は、人間的価値観・自分の価値観といった自分の肉なる愛に基づく献身。
イエス様は、マルタを否定してはいない。
優先順位の違いに気づいてほしいと願われておられるだけです。
 
マルタは、イエス様と共に働くことを、自分がイエスを助けなくてはならない。
自分のしていることにはそういう値打ちがある。
そんなふうに考えてしまっていたのではないのか?無意識にしろ。
その無意識というところに、マルタの肉の性質があらわれている。
マリアへの苛立ちや怒りの正当化。
イエス様が自分に味方してくれるはずだと思う、おごがましさ。
マルタは、イエス様を愛していたというよりも、仲良しこよしの関係を自慢げに思っていたんじゃないのか。
いそいそと働く自分が、大好きだったんじゃないのか。
そしてそれが、信仰表明だと思っていたんじゃないのか。
 
少なくとも、その場面に関しては、そういうマルタの一面が表れてしまったんじゃないのか。
勿論、マルタだけでなく、ペテロだって、イエス様に「サタン、引き下がれ」とまで言わしめてしまった時があることを知っている。
 
(マタイ16:23「イエスは振り向いてペトロにいわれた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」)
 
だからこそ、私たちはイエスから離れてはならないのだ。
イエス様の側にいてさえ、そのこころが、別の方向を向いていることさえあるのだから。
 
私たちはぶどうの枝、幹であるイエス様から離れては何もできない。(ヨハネ15 章)
 
image
 
マルタは、肉なる人間的な思いで、イエス様への献身に満たされた行動を、主にお捧げした。
イエス様に自分の力で仕えよう、従おうとした。イエス様の前に自分があった。
無意識のうちの自己顕示欲なのかもしれない。
 
為される事が、愛の行為により近いものであってさえ、薄汚れたものとなってしまう。
イエス様は薄汚れたあなたの衣を脱ぎなさい。
わたしの白い義の衣を着せてあげよう、とおっしゃっている。
ゼカリヤ3:4
「彼らの汚れた衣を脱がせてやりなさい。」
 
御言葉の真理の光に照らされて見えて来るもの。
こうして、私のような(無知な)者にも、主の御心を、私の乏しい理解力から引き出して与えてくださる。
 
詩篇119:130
御言葉が開かれると光が差し出で
無知な者にも理解を与えます
 
終末期に生かされている私たちよ、ウィクリフ・ルター・ミラーたち信仰の先人たちに続けよ、私たちよ。
ウィクリフの時代、ルターの時代、ミラーの時代を経て、漸進的に開かれて来た聖書の光。
 
日々、聖書だけでなく、私たちの現状に応じて主が与えてくださる書物や体験を通して、主の光を照らしてくださる。
 
「わきまえのない者にくださろうとする主の知恵を、謙遜に受け取るように私を導いてください。
あなたがいつも共に居てくださるから、私は自分の十字架を負ってついて行けます。」
 
「人間にできることではないが、神には何でもできる」マタイ19:26
 
マラナ・タ
詩編119編130節
この短い聖句で、私は二日間デボーションしてしまいました。
次々と、御言葉が思い起こされ、与えられて、自らの信仰の棚卸しとなりました。
デボーションとは、自分が積み上げた隔ての壁に気づかせていただく時。