ごきげんよう!さわこです。

 

7時前。寝過ごしてしまった日曜日の朝。

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トサミズキのつぼみ

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花桃の固いつぼみ。

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18日からのデボーション

神の律法の神聖さを保ちつつ、

同時に律法を破った者たちを救うただ一つの方法は、

十字架を通してのみ可能となりました。

それが神の方法なのでした。(今日の光2022.2.18より)

 

キリスト教の十字架の神学は、

私にとっては、

聖霊に導かれて聖書を読まないと分からないことでした。

 

西洋から入って来たキリスト教会の主張なのだ、と

教えられても自分のものにならないのでした。

 

そこが、すぐにわかる人たちって、すごい。

素直、純粋、というのでしょうね。

 

しかし、一方では、

直感で分かったと言う人が、

「教会を必要としなくなった。未信者のままで良し」

という選択をしたとき、

日本人の直観的情緒性の限界を感じたのでした。

 

私は、御言葉で、

御言葉そのもののイエス様に

出会わせていただいたので、

御言葉を確認して行かないと

なかなかわからないのです。

 

でも、そういう私に、そういう私だからこそ、

御言葉でわからせてくださる我が主イエスよ。

感謝にたえません。

 

私という落ちこぼれクリスチャンを

見捨てない神の御愛を

私は今日もたたえます。

 

 

19日のデボーションから

今の時代・・・

政治家の発言を聞き、

それを報道機関がどのように伝えているかを聞くと、

異なる演説を聞いているのではないかと思うことがあります。

時には、候補者の立場や描写や、

テレビでの一連の発言をもとに描かれた風刺画が、

あまりにも不正確であるため、

記者が候補者と対立しているのではないかと

思いたくなることもあります。

小さな発言が文脈から切り離され、

あたかも、その政治家が、

愚かで悪人であるかのように思わすことが

目的なのではないだろうかとさえ思われます。

 

善意を悪意にいとも容易にラッピングする。

現代においても繰り返される偽証の数々は、

すでに、イエスが体験されたこと。

 

2000年前のイエスさまの時代…

宗教指導者たちは、イエスを

「他人は救ったのに、自分は救えない」と嘲笑しました。


もし、「イエスは自分を救わない」と一字を変えていたなら、

宗教指導者たちは完全に正しく事実を語ったことになるのです。

イエスは自分自身を救う事がおできになりましたが、

それは神の愛の本質ではないからです。

 

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20日の安息日学校ガイドより

 

堕落した世界で生きることは、厳しい現実を避けられません。

罪には厳しい代償があるからです。

しかし、罪と苦しみに対する責任は神にはありません。

にもかかわらず、神は、

私たちの罪の結果を喜んで引き受けてくださいました。

 

私たちを神から引き離す罪が、

神の独り子であるイエスの上に置かれました。

 

イエスは父なる神から完全に切り離されていると感じるほどに、

その罪を完全に負われたのでした。

 

私たちが傷つき、孤独を感じた時には、

神もまた十字架の上で

私たちの罪の痛みと神からの分離を感じておられるのです。

 

十字架はすべての涙を拭い去ってくださる神の誓いなのです。

 

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マラナ・タ

すべて神様が御覧になっている。

私たちは、だれ一人として、

神の御前に申し開きする場面から逃れることはできない。