ごきげんよう!さわこです
井戸のそばで」という讃美歌を教えてもらいました。
この井戸のそばには、リラの花が咲いているんだ・・・
リラとは、ライラックのことだと、中学一年生の時に読んだ「赤毛のアンシリーズ」の最終編「アンの娘リラ」に書いてあった。
あのころは、聖書にもキリスト教にも関心がなかった。
そればかりか、「世界史」を学んで、キリスト教国家である白人列強諸国の傍若無人の残虐性に、驚いて反キリスト教になった私だった。
でも、カナダ人女性 ルーシー・モンゴメリ の書いた「赤毛のアン」は大好きだった。
アンにずいぶん影響されて思春期の私の性格は育って行った。
空想するのが大好き。
素敵なものを見つけるとすぐに名前を付ける。今も、それは続いている。
その一つが「楓の木公園」
ここです。冬の楓の木公園です。
さて、この曲を歌っておられるのが、Lyre リラというグループで「リラの井戸のそばで」がタイトル。
そこから「赤毛のアン」のアン・シャーリーが幼なじみの初恋の相手ギルバート・ブライスと結婚して、子だくさんの母親になって、末娘のなまえが「リラ」だった。「リラとは、ライラック」と確かに書いてあった。
そんな記憶がよみがえってしまった。
さて、本論。
歌を聞きながら、私の想像力はイエス様に向かってふくらんでいきました。
イエス様の命の水が滾々と湧き上がる井戸の側こそが私の場所でなくてはならない。
井戸から水を汲む行為は、「在るわたし」があってこそ「為すわたし」になれる。
イエス様のそばから離れては、その愛は「在るわたし」不在の「人間的基準の愛」になってしまう。
世の中には、善い行いによって、世の人を潤し助ける善き人も多いです。
では、クリスチャンとの違いって何だろうって考えたことがありました。
「自分で自覚していないだけのクリスチャン」かもしれないとも思ったりしました。
それもあるかもしれませんが、クリスチャンを自覚している人にとっては
その行為は「イエスそのものである御言葉に立っている」かどうかじゃないかしら。
御言葉そのものであられるイエス様」から離れては、
私たちは何もできないのである。生きていけないのである。
ヨハネによる福音書15章全章をお読みください。
1節から17節までだけでも暗誦できるようにしたい。
私は、未だに部分的な聖句しか暗誦できていません。
15:4
わたしにつながっていなさい。
そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。
枝がぶどうの木につながっていなければ、
自分だけでは実を結ぶことができないように、
あなたがたもわたしにつながっていなければ
実を結ぶことができない。
15:5
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。
もし人がわたしにつながっており、
またわたしがその人につながっておれば、
その人は実を豊かに結ぶようになる。
わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできないからである。
「主はぶどうの木」という讃美歌を知っていますか?
♫主はぶどうの木 わたしは枝です
いつもはなれずに 豊かな実を結ぶ
御言葉にとどまり 愛に生きるなら
この世は知るでしょう 主の救いといやし
主はぶどうの木 わたしは枝です
いつもはなれずに 豊かな実を結ぶ