ごきげんよう!さわこです。

 

朝、7時前の下弦の月。

 

image

 

 

「今日の光」読みながら、ひとりごと。

 

イエスは弟子たちに言われました。

「私が天に帰ったあと、父は聖霊を遣わして、私たちが一緒にいた時に言ったことをあなたがたに思い出させてくださる」と。

もちろん、聖霊がキリストの言葉を思い起こさせるためには、まず自分の記憶の中に入れておかなければなりません。

 

当たり前の事なんですが、

私は暗記するのが苦手なタイプ、あなたは丸暗記が得意だからね。

私は暗記ものではない学科は得意だったわよ。

と、一刀両断した人もいました。

 

私も、暗記は苦手です。

さらに理解力も低いです。

 

ご冗談を〜と笑い飛ばされました。

 

でもね、ワタシ、御言葉の魅力にとらわれています。

そしてね、ワタシ、切羽詰まっているんです。

 

イエス様ご自身である御言葉があるという事実を知ったなら、

努力が苦手なら、暗記が苦手なら、工夫するしかないんです。

 

さりげなく、そういう気持ちを起こさせてくださるお方が、聖霊の神様です。

 

image

 

現代のクリスチャンの中には、聖霊を聖書研究のための奇跡的な迂回路のように扱う人がいますが、イエスは聖霊の役割をそのようには説明しておられません。

あなたは神の御言葉に時間を費やす必要があります。

 

愛する人のために、時間を費やさないではいられないように、神様は人間を創造なさいました。

 

そうです!

私たちは猿から進化したのではなく、神様に手ずから創造されたのです。

この事実を、あなたは(読者さん方は)信じますか?

 

毎日、神との時間を過ごさないと、聖霊の声がわからなくなってしまうかもしれません。

 

私の娘が、小学2年生の時、創世記で、「人は神によって造られた」と知った時。

こう言いました。

「猿から進化したと言う話は、信じられなかったよ。

動物園に行くたびに、猿を見ていたんだけれども、いつまで経っても猿なんだもの」

 

彼女が、その疑問を、ワタシに話さないでいてくれてよかったと思いました。

 

私がアドベンチストクリスチャンになったのは、彼女が小学3年生の時でしたから。

ワタシはそもそもすべてを造られたのは神様だとは信じていましたが、進化論も信じていました。

 

「全ての被造物は、その始まりの「いのち」を神が創造して、それから、徐々に進化して適応して、自然淘汰して優れたものが、今に至る」

そういう、創造論+進化論を考えていたのでした。

そして、進化の過程には、ものすごく長い長い歳月を要するのだと。

だから、「年に数回、何年間も動物園に通ったって、猿が人間に進化していく過程は見られないんだよ」

と説明したはずなのです。

そして、彼女は、納得したと思います。

 

罪作りな、説明をしないで済んだことを感謝しました。

娘は、多分幼稚園の頃から小学1年生頃までは、「人間の先祖は猿である」と信じていたのです。

 

「創造論」を聖書から知って、「やっと納得できる話を聞いた」と喜んだのでした。

 

image

 

中学生だった長男は、

「創造論・進化論」ともに疑いを持っていた。

「神」の存在にも疑いを持っていた。

と言いました。

 

「でもね、いろんな知識も持って、疑いも持って、それでもって、イエス・キリストを信じることを選んで良かった」

と話してくれました。

 

image

 

 

「神の言葉に時間を費やす必要があります」

と「今日の光」には書かれていました。

 

時間のある人は、時間の足りない人の気持ちが分からないのよ。

と言われたりもします。

できない人のことは、できる人にはわからないのよ。

と言われたら、それまで。会話はストップ。

 

実を言うなら、私も時間がもっと欲しい。

 

時間を賢く用いる事ができるように助けてください、とは、ワタシの祈りの課題です。

 

 

早咲きの桜

 

image

 

聖霊を無視する習慣を身につけてしまうと、聖霊の声を聞き逃し、聖霊の警告を聴き漏らしてしまいます。

クリスチャンをとって、神様過ごす時間は、必要不可欠なものです。自由選択するものではありません。

 

押し付けですか?

強制ですか?

神の愛は、強制しないんじゃないですか?

 

これらは、特定の誰かが、私を非難するために、言って来たのではなく

(暗に似たような事も言われましたが)私自身が、私に言って来た言葉です。

 

私の内なる大争闘でした。

この闘いは、イエスを信じる信仰を武器としなくては、戦えません。

 

エペソ6章17節 「御言葉は霊の剣」です。

 

今も大争闘の渦中にある私は、何章何節まで覚えられません。

私の使い慣れた聖書のあの辺りに確かにあったと、探すことが度々です。

 

 

少しずつ、少しずつ、春が来ています。

冬来たりなば、春遠からじ。

 

image

 

マラナ・タ

聖書は初めがあって終わりがある。

転生輪廻の思想は聖書にはありません。