ごきげんよう!さわこです

 

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在る時、私は、「日本人は天地創造の神を信じることが容易である」と発言したのです。

すると、ある方は、「日本人は八百万の神を信じるアニミズムの土着の宗教であって、古事記に出てくる国づくりの神話と聖書の天地創造とは全く異なっている。日本人の中で、神道を通してあなたのように感じている人はほぼいませんよ」

 

「では、どうして私は、神が天地創造を信じていたのでしょうか?私は聖書だって読んではいなかったのですよ。私の家族はキリスト教徒でもなかったのですよ」

 

居合わせた教会員は「不思議としか言いようはないわね」と顔を見合わせました。

 

その帰り道、私は、何故、創造主がおられることを、あらかじめ信じていたのか、そのきっかけとなる出来事があったことを、不意に思い出しました。

 

幼稚園児の頃、伯母から旧約聖書の絵本をもらっていたことを。

天地創造、エデンの園、禁断の果実、弟殺し、ノアの洪水。

これらの場面が思い起こされました。

禁断の果実を食べた後のおぞましい一連の出来事から贖い主に繋いで理解することは幼稚園児の私には難し過ぎました。

 

唯一理解した事が、天地を創造された神様がおられるという事だけでした。

 

私は、ごくごく一般的日本人の家庭での神道の儀式の中に育ちましたが、私の内には、天地創造の神様が意識下にいらっしゃり、その目で日本神道を見てきたのだとわかりました。

 

母の姉である伯母はカトリックの神父と親しくしていましたから、クリスマスには教会に連れて行ってくれました。それも幼稚園児か小学1年生くらいの頃のことです。

婚約者を戦争でなくした伯母は、私を娘のように可愛がってくれたのです。

伯母はカトリック教会の施設で戦災孤児のお世話をしていていました。

後に地方公務員となって福祉事務所や児童相談所に勤めました。

伯母の職業の延長線上であったのか、「親業」を神父様と一緒に学びに行って取り組むようになりました。子育て中の私は二人から親業を学びました。

 

そして、歳月がたってSDA教会でのパスファインダークラブで親業に取り組むことに至りました。パスファインダークラブとは、SDA教団のボーイスカウトのようなもので、聖書と自然活動と奉仕のクラブです。私はPFC部長を17年間くらいしていたので、子どもの聖書のクラスに自然にかかわるようになりました。

そんなわけで、親御さん方と子育てを考えようと「親業」に取り組むようになりました。

 

キリスト教嫌いだった私を、神様は「預言の声・聖書通信講座」へと招き寄せ、その学びの中で、「クリスチャンには決してならない!」という私の頑なさが聖書の御言葉によって取り去られ、キリストを信じる者へと変えられたのでした。

 

創世記1章1節「初めに神は天地を創造された」を信じていた私ですから、クリスチャンにはならないといくら抗っても抗いきれませんでした。

 

中学・高校で学んだ世界史の教科書を通して、世界中をキリスト教国家群が植民地にしたことや、十字軍や宗教裁判や魔女狩りなど、キリスト教にまつわる負の出来事を通して「野蛮な宗教」との印象の方が強い私でした。

 

そんな私を、生ける神キリスト様の臨在が私を変えたのでした。

私が「初めに神は天地を創造された」と幼児期に信じていたこと。

その目で、日本の神道を見てきたこと。

初詣でや神社仏閣巡りが好きな人間に成長していったこと。

 

その一連の流れがつながりました。

「不思議ね」ではなかったのでした。「必然」でした。

 

花びらの一枚一枚に、木の葉の一枚一枚に神は愛である、と書いてあるとエレン・ホワイトは書いています。

パウロは、ローマ2章に、人は神の被造物を通して造られたお方がいることを認める、と書いています。

 

日本人ほど、自然の美しさや繊細さを愛でる民族はないかもしれません。

愛でる自然の一つ一つに敬愛を込めて「カミ」と呼んだのではないだろうかと思うのです。

 

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マラナ・タ

太陽、月、星を見上げるたびに、創造週の4日目に神はこれらをお造りになった、と確認するたびに信仰が養われ守られます。