ごきげんよう!さわこです

 

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ときに、孤立や孤独感は破壊的な結果をもたらします。

しかし、ある人には、それが祝福となります。

 

なぜなら、沈黙と寂しさが私たちの心を癒し、私たちをより大きな役割に備えさせるからです。

 

独りだけの時間は、私たちを初心に立ち帰らせ、生活の中の優先順位を見直させます。

 

私たちには沈黙と孤立が必要なのです。

 

聖書の決定的な瞬間の前には、しばしば沈黙と孤立があります。

 

独りだけの寂しい時間は、私たちが神のビジョンをとらえる助けとなるのです。

 

孤立は、私たちに人生の焦点を合わせ直すように迫ります。

 

神は独りだけの寂しい時間を用いて、私たちをより大きな挑戦や機会に備えられます。

 

このような時に、私たちは成長し、神のかたちが私たちのうちに回復されるのです。

 

孤立や孤独の時期は、目に見えない神の御手が、私たちをしっかり掴んでいることに気づく機会となります。

 

(アドベンチストライフ2021年1月号 孤独の祝福ーより大きな挑戦や機会に備える 14〜15 ページ抜粋)

 

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ここを読みながらガラテヤ1の17を思いました。

「また、エルサレムに上って、私より先に使徒として召された独りたちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした」

というパウロの言葉です。

 

私の聖書には、退いて神様と相談する、と書き込みがあります。

 

15節には、「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出して下さった神が、御心のままに」16節「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしはすぐ血肉には相談するようなことはせず」とあります。

 

血肉とは一番近しい存在。信頼し得る存在。

パウロは血肉と相談するよりも、また、先に召された使徒たちのもとに行き相談するのでもなく、孤立・孤独になれる場所、神とふたりだけになれる場所に退いて神と相談したのでした。

 

筆者のクリングベイル先生は、そういうことを言っているんだと思いました。

 

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アドベンチストライフ1月号から、暫し、デボーションとなりました。

 

私にも、孤独・孤立の体験があります。

私は一介の一平信徒です。

大きな任務を課せられたのでもない存在でありますけれど、

バプテスマから三年後、四年半に渡る長欠者に追い込まれました。

(私の信仰が弱かった、意思薄弱だった、と言われたそれまでですが)

 

 

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アラビアの荒野に退かされた孤立・孤独の信仰生活を余儀なくさせられた。

いいえ、孤独の祝福に与らせていただいた。

 

人に頼らない、神しかいない、神にしか相談できない、孤立した離れ小島に置かれたような、あのときが私のアラビヤ時間だったんだ。きっと。

 

聖霊様が教師となって下さった不思議な個人授業の恵まれた歳月。

孤独の祝福の時間を四年半も頂きました。