ごきげんよう!さわこです

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「何をどう祈ったらよいのか?」

キリスト信者になってから、

早いか、遅いか、

人それぞれでありましょうが、

この問題に突き当たらない人は

いないのではないでしょうか?

 

わたし自身、そうでした。

暗闇の中に、一人残されたようで、

「自分の祈りの力のなさにむなしさ」に耐えきれなくなっておりました。

 

バプテスマから、10年ほど経った時でした。

『西日本教区新報』の隅っこに「祈りのセミナー聖会」の案内を見つけました。

隣の県にある姉妹教会で実施されると知りました。

 

そこで、頂いた御言葉。

使徒行伝1章4節

「そして食事を共にしている時、彼らにお命じになった

『エルサレムから離れないで、かねて私から聞いていた父の約束を待っているがよい

 

指導者の牧師が尋ねました。

「あなたにとってのエルサレムとはどこですか?」

 

御言葉から光が差しました。

イエス様の教会から離れないで、神様のお約束を待つことが私のすることなのだ。

そのためには、毎日、聖書を読もう。聖書通読をするのだ。

そういう決心に導かれたのでした。

 

祈りのセミナー」を企画された牧師にもらった通読表が指針となりました。

その通読表はユダヤの祭りに焦点を当てていました。

ユダヤの祭り、聖所、御言葉、すべてイエス様であることに気づかされるようになって行きました。

 

「何をどう祈ればよいのかわからない」という私の問題がいつの間にか消えていました。

聖書が祈りを教えてくれるようになったからでした。

 

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(SDA教会100日の祈り継続編2021年8月20日(金)より)

 

祈りの発達が阻害される問題に対処するには、「聖書」そのものが神の処方箋です。

祈りの壁を打ち破るための唯一の方法は「みことば」をそのまま祈ることです。

 

エフェソの信徒への手紙6章17節、18節を読んでみなさい。

「霊の剣、すなわち神の言葉をとりなさい。どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求めなさい」。

 

聖書と祈りはいつも一対であるべきものなのです。だから、み言葉そのものを祈りなさい。

 

歴史を通して、クリスチャンの霊性は、「御言葉そのものを祈る」という訓練を始めた時に改革されてきた。

 

マルチン・ルター、ジョージ・ミューラー、ハドソン・テイラーなどがその例だ。

ハドソン・テイラーの子どもたちは、夜中、父親がろうそくの灯のもとで、聖書を読み祈っているのを聞いていた。

ジョージ・ミューラーは、聖書を開いて、聖書と共に祈りはじめるまで、集中するための格闘をした。

 

彼らは御言葉を読んで祈る、それを繰り返した。

ミューラーは、御言葉と祈りの課題を同化させたときに、彼自身の言葉で祈る時よりもさらに多くのことを祈れることを発見した。

それは、告曰の祈り、崇敬の祈り、他にももっとたくさんある。

「御言葉に基づいて祈る」ことが祈りの壁を撃ち破ることになったのだ。

 

マラナ・タ

私が「祈り」に行き詰ったのは、「自分の言葉」で祈っていたからなのでした。