ごきげんよう!さわこです
マタイ24:31
人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで彼によって、選ばれた人たちを四方から呼び集める。
テサロニケ第一4:15-17
主の言葉に基づいて次のことを伝えます。
主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主ご自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らとこのようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」
こうした聖書の記述からも、人間が天国に行くのは、キリストの再臨の時だと明らかです。
それなのに、なぜ、この世の生を終えたらすぐに天国に行くと言う教えがキリスト教の教えであるかのように流布されているのでしょうか。
しかもキリスト教徒だけが天国に行けるのだと思わせるのでしょうか。
長い間、人々から聖書が隠され聖書的でない教えが真理であるかのように伝えられて来たからではないでしょうか。
しかし、その嘘は明らかにされる時が迫っています。
キリストの再臨が近いからです。
私は、セブンスデーアドベンチスト教会の「預言の声・聖書通信講座」を学ぶまでは、聖書を読んだことがありませんでした。
ですから、何となく聞こえて来る情報から、イエスを信じた人は天国に行けると信じて、大伯父一族は、クリスチャンだと知っていました。
キリスト教は、身近でありながら、身近ではなく、お墓参りの時に知る宗教でした。
弟である祖父が、浄土真宗の檀家であった家を相続していたのです。
江戸時代まで庄屋をしていた祖父の実家は、明治になってからも、淡々と農業を続けていました。
ご維新があって、高等教育を受けることで、職業の選択の自由の恩恵が受けられるようになりました。
その時代の潮目を見た、祖父の父は、村第一号として、長男を東京の大学に進学させました。
卒業後も、大伯父一家は東京に住んでいましたから、都会の地でキリスト信仰を持ったのでしょうね。
(戦時中は、キリスト教徒として、苦労があったのかもしれません)
はてさて、庄屋という職業は、どうなったのか。
小地主として、地域の農業に従事する人たちの指導的立場にあった曽祖父は、弟を(祖父)を跡継ぎにしました。
長男には高等教育を受けさせて、次男は手もとにおいて、庄屋魂をたたき込んで、農業とその管理、地域のリーダーとなれる教育を自ら次男に施したのでした。
そして、戦争。そして戦後。農地改革があって、田畑は没収されました。
質素な生活が身についていましたから自給自足的生活を維持できたのだと思います。
私は、キリスト教に対しての憧れもなく、たまたま、行った幼稚園がカトリックではありましたが、宗教教育はありませんでした。
クリスマスの聖劇があったくらいです。
キリスト教の教義には全く無知であった私が、聖書に忠実なあまりに、一部のキリスト教会からは、異端視さえされていたセブンスデーアドベンチスト教会の通信講座を学ぶと言う不思議なことを神様は計画なさいました。
教会での人間的な親しい交わりもなく、ひたすら、聖書に忠実な通信講座の学びのみ、コツコツと、数か月続けました。
それで、洗脳されたのだと言う人がいるならば、それはそれで、言う人の価値観の問題です。
自分が学んでみた上で、洗脳させるシステムであるかどうかを体験してみたらよいのです。
そもそも、キリスト教嫌いだった私、(植民地主義政策を世界史の教科書で知ったことが原因)用心深く、批判精神いっぱいでの学びでした。
それでも、キリスト様は私に臨んでくださいました。
聖書のことは、聖書から学ぶ。
旧約聖書と新約聖書は補完し合う。
教会に行くこともなく、牧師や伝道師の訪問もなく、山形俊夫先生の「預言の声・聖書通信講座」36課、それだけで、キリストに出会ってしまったのです。
教会を一人で訪問してから31年が過ぎました。
エレン・ホワイトの著作集は、聖書を照らす小さな光。
「聖書と違うことが書いてあったら、聖書の方を信じなさい」とはホワイトさんの言葉。
それでも、SDA(セブンスデーアドベンチスト)教会を非難する人は、ホワイト教だと言います。
ネットを調べると、非難する人や団体が出てきます。
非難する人は、SDA信者を洗脳されていると言ったりもします。
どうぞ、祈りをもって聖霊の導きを求めて、ご自身で聖書を読んでください。
心を低くして、誠実な謙遜さを神様に願い求めて、読んでみてください。
そして、自分の知性、理性、良心に神様が関わってくださると思いますから、その上で、どう選択するかは、各自の問題。
選択の自由です。
聖書の神様の愛は、強制はしません。
マラナ・タ
こうして信仰を頂くに至ったきっかけを振り返ってみて、情緒的な理由ではないことがはっきりします。
「御言葉に立つ」 それのみだと。
だから、教会の中で人につまずくとか、世の中の噂や情報に影響されて、少数派の教会にいていいんだろうか?と心を騒がせるとことはなかったのです。