ごきげんよう!さわこです

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「わたしはあなたがそれを自分の目で見るようにした。

あなたは、しかし、そこに渡って行くことはできない」(申命記34:4)

と、主は言われました。

 

モーセは、頑な民たちに忍耐しながら、

あらゆる荒野の困難を乗り越えて、

約束の地の目前で、

今までの忍耐と苦労を台無しにするような失敗をしたのでした。

 

神様から、「モーセほど謙遜な人はいなかった」民数記12:3.

とまで認められて、

神と顔と顔を合わせることを許されたほどのモーセ。

 

口語訳と新改訳は、謙遜が柔和となっています。

原語には両方の意味があるのですね。

 

つまり、神様から

地上のすべての人に優った謙遜と柔和の

持ち主として太鼓判を押されていたモーセだったのです。

 

一瞬の、一時の、間であれ、モーセの怒りに支配された言動。

 

「水が出るように岩に命じよ」と、

神様に言われたにも関わらず、

怒りに任せて二度、岩を叩いたのでした。

 

それは、神の御目には不信と映りました。

なぜ、不信と神様は仰ったのか。

 

※(このことについては、あらためて「モーセの不信仰」というタイトルで書きますので、また、読んでください)

 

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にも関わらず、神様は喉の渇ききった200万人(成人男子だけで60万人)もの民に水を湧き出させて下さいました。

その神の愛のわざに、読む者は目を見開かざるを得ません。

 

神の忍耐・謙遜・柔和の現れです。

叩かれた岩は、主なるイエスです。

 

一瞬の失敗の結果の不信心と見なされたモーセ。

神様は人を偏りみないお方でありますから、

不信心の刈り取りを、モーセだけ例外とはなさらない。

神の義の一貫性を見ました。

 

そして、神との深い一致と繋がりの確かなモーセは、

主の仰せのままにと受け入れたと思います。

 

自分の一時の迷いのような不信心な言動にも関わらず、

民の渇きを癒して、さらに約束の地を与えてくださる、

それを見せてもらえて、モーセは苦労が報われたと、

どんなに安堵して神様を讃え感謝したことかと思いました。

 

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ガイド98ぺージの最後には

「主はモーセの失敗にも関わらず、神が先祖やイスラエルと交わした契約の約束に忠実であることを示されたのです。忠実でありながらも欠点のあった僕に、主はさらに良いものを用意していました」と書いてあります。

 

さらに、良いものとは・・・

その答えは新約聖書(マタイ17章、マルコ9章、ルカ9章)の「イエスの姿が変わる」に示されています。

 

山の上でペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れたイエス様の姿が変わり、栄光に輝くイエス様がモーセとエリヤと語り合う場面です。

 

モーセはシナイ山で十戒を神から授与されたということで律法を象徴している。

さらに、一度死んだが、ご再臨の時に、主によみがえらされて天国に上った。

 

そして、エリヤは預言者を象徴している。

さらに、生きたまま天に昇って行ったということで、

ご再臨の時に生きたまま天に昇って行く人々を象徴している。

 

いままでは、こんなふうに学んで来ましたが、

今回、私はガイドを読みながら、

申命記34章のその後が、

福音書に記されているとわからせていただいたのでした。

 

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モアブの地にある谷に葬られ120 才で死んだモーセは、復活して天に神様と共にいることを私は知ることができたのです。

 

モーセは、イエス様のご再臨前に死んだ信者が復活して天にあげられる型です。

失敗してしまったモーセはネボ山で神からその将来の預言の成就をつぶさに見せて頂いたのです。

僕モーセに与えられた「さらに善いもの」とはそれであるのです。

 

神様の義と愛の大きさ、完璧さは計り知ることができません。

 

モーセは永遠の命に入るために復活した最初の人でした。

モーセが、罪を犯してよみがえった最初の人間であったのでした。

 

人類史の中で、死を経験した人々の死の状態とその後については、モーセと同じなのです。

モーセがその型なのですから。

 

私たちは、死んで目を閉じ、

次に目を開けるときには、

イエスの再臨か、最後の裁きかのどちらかなのです。

 

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罪を犯しても悔い改めたら立ち帰ることができる。

罪を犯したモーセがよみがえったように、

私たちは、キリストの功績のゆえに

よみがえることができるのです。

 

私たち人間の復活は、神によるのです。

それは私たちの力ではなく神の恵み。

 

神様が、私たちに求める忠実さとは、

聖書の神様を知り、信じ、その神様と共に生きていく決意と実行です。

 

心(精神)は忠誠を誓い、肉体は活動という行いを伴う。

聖霊の導きによるキリストの内住なしには、できないことです。

 

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「神が、神の民を扱われる時は、いつでも、そこに神の愛と憐れみと共に、神の厳正公平な正義が混じっているのである。それがヘブル人の歴史の中で実証されている」

(エレンGホワイト著「人類のあけぼの」43章の1行目)

 

神はたとえモーセであろうとも偏りみない愛と義のお方です。

あんなに、頑張って良いことをいっぱいしたのに、

神様からあなたほど柔和で謙遜な人はいないと言われたのに、

神様と顔と顔を合わせて話し合ったモーセだったのに。

 

なんなんだろう・・・と、恐らく私も十数年前まで思っていたに違いない。

しかし、今は違う。神様の御心がわかります。

 

み言葉の蓄えが増えてきたこと。

御言葉の理解を自分の体験や気持ちを基準として読むことが減ってきたこと。

つまり未熟だった信仰が徐々に漸進的に育ってきたからと言えるのかもしません。

勿論、まだまだ分かっていないことの方が多いのは事実ですが、漸進的成長という、恵みも頂いているのです。

種から双葉、双葉から、本葉、本葉から茎・・・という段階を通っているのです。

 

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また、キリストを信じた者は、キリストのように完全になることができるという信者もいます。

いつも、神様の方を選択し続けるように意志を働かせるなら、人は完全になることができる、と言う信者もいます。

 

しかし、神様ご自身に「キリストの型である」と言われたモーセが失敗した。

完全になれなかった。

その事実と現実を聖書は記しています。

 

そのとき、神はどうなさったのでしょうか?

 

神様はモーセの失敗にではなく、成功した数々の行いに目を向けて甘んじて許されたのでしょうか?  否!

 

秤で計って、善行が失敗よりも重かったから、最後の審判において無罪とされたとでもいうのでしょうか?  否!

 

モーセの最後の最後の落ち度、失敗を神様は、どのようにお取り扱いなさったでしょうか?

神様はモーセを不忠実ものとみなされたでしたか?

 

「人は完全になることができる」と言う完全論にこだわってしまうことから、

神様が、「目を転じて見てごらん。モーセのケースから、学んでごらん」

そんなことに思いを馳せたのでした。

 

※ このこと(完全について)は、また今度、書きたいと思います。

 

マラナ・タ

主イエスよ、来たりませ!

今週のガイドの学び、とても深まりました。

 

予告です。

※モーセの不信仰

※完全について