ごきげんよう!さわこです。

 

image

 

三浦綾子「海嶺」より

 

キリスト信仰を頂いたばかりの頃、もう30年も前になりますが、その当時、読んだ三浦綾子著「海嶺」を読み返しました。

海難に遭い1年2カ月間も漂流して異国人に助けられた船乗りたちの実話物語です。

岩吉、音吉、久吉の三人は宣教師ギュツラフの聖書和訳を手伝うことになり、ギュツラフは福音書の中のヨハネ伝を選んだのでした。

 

下巻181ページに意味深い会話がありました。

 

「ナムアミダブツは一体どんな言葉なんやろ、な

 

「わしもようは知らんとですが、仏さまが一緒にいる事ではないですか」

 

「仏さまが、わしらと一緒にいること?     インマニエル・アーメンと、似ているわな」

 

「ナムアミダブツをエゲレスの言葉で言うと、そういうことになるんや、な」

 

image

 

ナムアミダブツ(南無阿弥陀)は、阿弥陀さまに帰依します。

阿弥陀様を信じます。という意味です。

 

四国八十八ヶ所巡礼をするとき、お大師さま(弘法大師空海)が一緒にいてくださるという意味の同行二人と言う言葉があります。

 

まさに主、我らと共にいますです。


 

ヨハネ伝1章1節2節はこう訳されました。

 

「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル。

コノ カシコイモノ  ゴクラクトモニゴザル。

コノ カシコイモノワ ゴクラク。

ハジマリニ コノカシコイモノ ゴクラクトモニ ゴザル」


 

ヨハネによる福音書は、新共同訳では、このように訳されています。

「初めに言があった。

言は神と共にあった。

言は神であった。

この言は、初めに神と共にあった」

 

image

 

ギュツラフは、聖書の日本語翻訳に何故、福音書を選んだのか?

 

聖書には、イエス・キリストが神ご自身であることが書かれているのであって、そして福音書は、旧約聖書で預言されていたメシアがナザレのイエスであり、福音書はそのメシアであるイエスの伝記としての物語だからです。

 

福音宣教とは「イエス・キリスト」が人類の救い主(メシア)であることを、人々に伝えることが目的だからです。

 

創造主であり贖い主である三位一体の神の、第二格である御子なる神が、地上に「人の子」として降って来られて、目に見えない神が実はどういうお方なのかを証明されたのです。

「わたしを見たのは、父(神)を見たのである」とイエスは仰っています。

 

image

 

では、4つの福音書の中でなぜ「ヨハネ伝」が選ばれたのか?

その疑問については、本の中の一つの場面での会話が教えています。

 

下巻153ページより

 

「ミスター・ギュツラフ。日本のために、ヨハネ伝とヨハネの書簡を選ばれたのは、なぜですか。マタイ伝やルカ伝のほうが、どこの国の言葉に訳すにしても、たやすいと思うのですが」

 

「ええ。そのことは皆さんによく言われるのですよ。確かに譬え話の多いマタイ伝やルカ伝のほうが、翻訳は容易です。なんせヨハネ伝は、形而上的に過ぎますからね」

 

「全く。四福音書では、一番とっつきにくい福音書です」

 

キングが微笑した。

「しかし、わたしはモラビア兄弟団(キリスト教の一派)に深く関わっておりますから、ヨハネ伝こそ、キリストの神性を最も明らかに示していると信じているのです。また、ヨハネの書簡は、人間が生活していく上に大事な兄弟愛について書かれてありますし・・・」

 

「なるほど。おっしゃるように、ヨハネ伝に示された真理は、確かに深いものです。・・・それでわかりました」

 

「ミスターキング。わたしがヨハネ伝を選んだのは、それだけではありません。彼ら三人とマカオの社寺を巡った時、わたしは彼らが何処へ行っても頭を下げることに気づいたのです。彼らは何にでも手を合わせるのです。それでわたしは、アテネの、あの『知られざる神に』手を合わせる記事を思い出したのです」

 

「ああ、あの使徒行伝にある、あのアテネの神々のことですね」

 

「そうです。おっしゃるとおりです。ミスター・キング。それでわたしは、キリストの神性を確実に伝えるヨハネ伝を選んだというわけです」

 

image

 

岩吉、久吉、音吉の三人は遭難した千石船の生き残りです。

舵取りの岩吉は30代前半。15歳の久吉と14歳の音吉は飯炊きの見習いとしての初航海。

鎖国下の日本においては、米を運ぶ船は沿岸を走るのですから、外洋に出て行くことを前提として造られておりません。

その船が遠州灘で突然の嵐に遭って、1年と2カ月太平洋を漂流し、14人の乗組員のうち11人は死んでしまうのです。

 

武家社会にあって特別な教育を受けたわけでもない貧しいこの三人の船乗りの人物描写に、代表的日本人として価値観の違う外国に、堂々と紹介するにふさわしい人物であることに、私はいたく感動して誇りに思ったのでした。

 

キリスト教を信じる者は、キリスト教こそが唯一の正しい本物の宗教であるとして、日本人の宗教観を蔑むかのような発言を聴くこともあります。

 

しかし、礼儀正しく、整理整頓のできる、細やかでかつユーモアもあり、正直誠実な、三通りの代表的日本人のキャラクターを描写した三浦綾子さんの筆力に圧倒されました。

 

有名な人にならなくても、成功者にならなくても、氏も育ちも血統的証明がなくても、この三種類の人物こそが、江戸時代にあって、日本という国が育て海外にも通用する人間なのだ、という確信が湧いてきました。

 

岩吉は熱田神宮に捨てられていた赤子でした。

子どものない夫婦に拾われて育てられ、近所の物知りに読み書きを教わり、14,5歳の頃には千石船に見習いとして乗り現場で実地訓練されながら、やがて知識・技術・道徳心・見識を身に着けて、信頼される「舵取り」としてのひとかどの人物になって行く。

一回りほど年下の久吉・音吉にとっては、岩吉は成人男性のモデルともなったのです。

 

義務教育という制度もなかった時代、武家社会では藩校がありましたが、庶民たちには寺小屋、しかし、そこにも通えない子たちもいたのですが、家庭・地域・奉公先の大人たちの中に、子どもを導いていく、訓練していく、慈しみ育んでいるそういう存在が、随所にいたんですね。

そんなことにもあらためて感動したのでした。

 

大人たちの信心深さを子どもたちもまねて育っていく。

異国の地においても、マカオの町でも、神社仏閣を見れば立ち止まってこうべを垂れる。

 

日本のクリスチャンの中には、神社仏閣を嫌う信者がいます。

そこは、異教の神・偶像の神、つまりサタンに属する虚偽の神なのだと。

 

また、キリシタン禁止令の出ていた徳川政権下にあって、キリスト教は邪教でした。

切支丹と知られたら、また、疑われたら、拷問・磔刑は確実でした。

 

「キリスト教の自由と平等の精神が身分差別のある封建制の日本には不都合であった。

だから迫害の対象となったのだ」と、このような論調で説かれています。

三浦綾子さんもそう書いておられました。

 

しかし、キリスト教主義国家が、真の自由と平等社会となり得ていない事実を知っています。

ひずみを抱え、問題を抱え、自由主義も民主主義も、共産主義も社会主義も、理想とは程遠いことがはっきりと見えてきました。

 

キリスト教主義国家による、国家的な福音宣教プロジェクトは、有色人種を「人間」とは見なさずに「動物以下」の扱いをしてそれぞれの国の文化も言語も崩壊して、それらの国の富を掠奪して行ったことを世界の歴史は記しています。

キリスト教宣教師が実は植民地化するための先鋒であったことも研究されています。

勿論純粋な宣教精神で殉教していたキリスト者もいたこともよく知られています。

 

キリスト教の精神がただのきれいごとであることに貶められてきたことも分かっています。

 

しかし、この本に登場するような、クリスチャン宣教師も実在しており、岩吉・久吉・音吉は彼らによって助け出され、キリストの愛を知ることができたのでした。

 

岩吉たちは、日本の文化の中に根付いた神と、聖書の示す神との間で、本質としての神を見いだしていった神との出会いの物語でありました。そこを根っこのテーマとして書かれた本だと思います。

 

image

 

旧約聖書で、神の救済計画を伝えるために、イスラエル(ユダヤ)を選びだしたにもかかわらず・・・

小預言書から、イスラエルの悪事を嘆き譴責する神の言葉を一部紹介します。

 

アモス2章を要約するなら、「正義が金によって曲げられ、数しい人が虐げられ、性が歪められ、宗教は冒瀆された国になり果てた」

ホセア11章を要約すれば「愛し呼び出し我が子としたイスラエルがわたし(神)から去ってバアルを礼拝するようになった。愛と正義を保たず、神に立ち返ることを拒んだ。」

ホセア5:5「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢」

 

イスラエルは、ノアの息子セムの子孫です。

真実の神を伝える民が民族として、内的精神の崩壊に伴って神から離れました。そして国家そのものが歴史から消え去りました。

やがて、イスラエルは1948年国家として新生しましたけれども。人種的にはセム系に各国のユダヤ教を信じる民族が混じり合っています。

ユダヤ教を信じる者がユダヤ人なのです。また母親がユダヤ人であればその子はユダヤ人です。

 

 

image

 

イエス様が十字架・復活・昇天してから後の時代が始まりました。

白人系のキリスト教国家は、ノアの息子ヤフェトの子孫です。

世界中を植民地とし、他国の富を自分たちのものとし、現代に至る混乱の元凶となっています。

聖書的には、今の時代は、ダニエル書2章41節―43節の時代です。

巨大な像の夢に出て来た。巨像の足の指の部分の時代です。

 

「・・・足指は一部が鉄、一部が陶土です。この国には強い部分もあれば、もろい部分もあります。鉄が柔らかい陶土と混じりあっているのを御覧になったように、人日とは婚姻によって混じり合います。しかし、鉄と陶土と溶け合うことが無いように、一つになることはありません」

44節45節には、

「・・・天の神は一つの国を興されます。この国は永遠に滅びることなく・・・すべての国を打ち滅ぼし、永遠に続きます。」

46節「山から人手によらず切り出された石が、鉄、青銅、陶土、銀、金(人間によって造られた国家、ローマ・ギリシャ・ペルシャ・バビロンに各帝国)を打つ・・・」

 

 

山から人手によらず切り出された石、とは、イエス・キリストの再臨です。

今は、再臨に刻々と近づいている時代なのです。

 

image

 

最後に私の個人的体験を。

15年ほど前、二泊三日の座禅断食に参加しました。

主催者は、浄土真宗の若いご住職。

三日目の朝、「般若心経」の朝のお勤めの声が聞こえて来て目覚めました。

同時に、ヨハネ福音書の1章の声が重なって聞こえたのです。

1章の1-5節までを暗誦していましたから、わかったのでした。

暗誦してなかったら、聴こえたかどうかわかりません。

他の人には(私以外はノンクリスチャン)聞こえてはいなかったと思います。話題になりませんでしたから。