ごきげんよう!さわこです。
 
緊張と試練と闘いに満ちているこの世にあって、
思い煩うのをやめることは難しいことです。
 
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「疑いなく、この世は
緊張と試練と戦いに満ちています。
誰一人逃れることはできません。
紛れもなく使徒パウロでさえその1人でした。
 
にもかかわらず、彼は私たちに語りかけます。
 
いま、それらの試練を耐え忍ぶなら、
私たちはキリストの内に
与えられている救いの喜びに憩うことができ、
事実、この世にあってさえ、
魂の休みを得ることができるのです。」
 
       (安息日ガイド2021.9.23)
 
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疲れた者、重荷を負う者は、
だれでもわたしのもとにきなさい。
休ませてあげよう。マタイ11:28
 
今、この御言葉の意味が新しく迫ってきたように思いました。
「重荷をイエス様に預けてしまったら、らくちんになって、
悠々自適の左うちわの人生を提供してあげますよ」
なんて、聖書は言っていないことに、今頃、気が付きました。
 
人には、それぞれの負うべき荷を与えられているのが人生です。
とイエス様は仰ったではありませんか!
 
「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」
(マタイ16:24、マルコ8:34、ルカ9:23)
 
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「イエス様におゆだねしたら、重荷も持っていただけるから楽になるのよ~」
って、単純な理解をしていました。
 
「あなたが悩むのは、イエス様におゆだねしていないからよ。イエス様という馬車に乗せて頂きながら、自分の荷物を自分のお膝に乗せているんですよ。荷物置き場に置きなさい。」
って、助言を聞かされていました。クリスチャン1年生の頃。
 
その時には、
「ゆだねていない私は、信仰心が足りないからだ。
委ねることができる人は、すごい信仰の達人だ!」
と思っていました。
 
ゆだねるとは、イエス様の軛を負う事であって、自分の十字架をイエス様に背負わせることじゃないと、気づきました。
私の罪をイエス様は十字架で負ってくださいましたけれども、日々負っている自分の任務としての荷物は、イエス様の軛につながって、イエス様から学ぶことなんですよ。
 
「・・・わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすいく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:29・30)
 
マラナ・タ
この御言葉の意味に気づくようになったクリスチャン30年生のわたくし。
はい、いまさらながら・・・です。
助言の真意を理解できていなかったんですね。