ごきげんよう!さわこです。

 

十戒に記されている安息日について、

創世記・出エジプト記・申命記から、デボーションとなりました。

 

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創世記1:31

「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」

 

創世記2:1-3

「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」

 

出エジプト記20:8-11

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。

六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

六日の間に主は天と地と海とそこにある全ての者を造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 

 

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申命記5章にも十戒が記されています。

 

出エジプトの第四条の安息日については

書かれていなかったことが書かれているように思えますが、

出エジプト記の20章2節に十戒の前文として、書かれていた

「私は主、あなたの神、

あなたをエジプトの国、

奴隷の家から、導きだした神である」が、

申命記では安息日に関するところに書かれているのです。

順番が違っているだけです。

 

申命記5:15

「あなたがかつてエジプトの国で奴隷であったが、

あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばして

あなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。

そのために、

あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」

 

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モーセは約束の土地には入れないので、そのモーセに神様がお与えになった最後の仕事が「申命記」なのです。

シナイ山でモーセが神様から直接授かったご命令を二度目に申し述べたのです。

だから「申命記」となるわけです。(と、納得した私)

 

申命記では「奴隷から、神様によって買い戻された(贖われた)ことが、十戒の前文ではなく本文の安息日を守るようにとのご命令の中に書かれているのです。

 

 

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安息日学校聖書研究ガイド2021.8.30には、

以下のように書かれていました。


私たちは、
神が創造主であることを覚え、
神が私たちを

再創造してくださることを信じ、
私たちが

望み求めさえすれば、
主が私たちの内に働いて、

私たちを罪の縄目から

解放してくださるのです。

 


イスラエルが二度目に十戒を聞いた時(申命記5:12-15)モーセは彼らに荒れ野での40年を思い出させました。
ここでは、安息日を聖別する理由として、エジプトでの奴隷と束縛からの解放でした。
安息日は創造と贖いの記念日なのです。

今日、私たちはエジプトで、奴隷ではありませんが、今日的な奴隷制度に直面しています。
安息日は、私たちを不当に束縛するすべてのもの(罪)からの自由を祝う日です。


イスラエルの出エジプト前夜、戸口に小羊の血を塗ることによって長子が救われたように(出エジプト12章)、
私たちも、神の小羊の血によって救われたのですから、キリスト・イエスにあって、私たちのものとなった自由の内を歩むのです。


 

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バビロン捕囚から後、エルサレムに帰還したユダヤ人たちは、

自分たちが律法を守らず、神に不服従だったことが招いたバビロン捕囚事件だと深く反省したのでした。

そして、安息日遵守について、厳格な解釈をするようになって行きました。

 

安息日にしてはならないことにばかり注意が向いてしまって、神様の御心そのものである安息日の伝え方が「変容」していったのでした。

それは、福音書の中でイエス様がファリサイ派・祭司・律法学者たちを譴責なさったところからも、イエス様の悲しみに満ちた憤りの愛の深さが伝わってきます。

 

 

マラナ・タ

十戒に記されている安息日について、旧約聖書(創世記・申命記)に記された「十戒」から読み解くならば、クリスチャンになるとは、こういうことなのです。