ごきげんよう!さわこです。


赦すためには、まず私たちが傷ついていることを認めなければなりません。

これは難しいことです。

私たちは、そのような感情に向かい合うのではなく、忘れ去ろうとする傾向があります。

クリスチャンには似つかわしくない憤りや怒りといった感情でさえ、神の前にそれらを認めることは良いことです。

聖書の詩篇の中に、そのような表現を見ます。

私たちは、自分に起きた不愉快なこと、自分がされて嫌だったこと、悲しかったこと、怒りなどを神に遠慮なく語っていいのです。

(安息日聖書研究ガイド53ページ)

 

この箇所について、3人の信仰の友たちの語り合いです

 

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キーワードは「過失」と「感情に向き合う」この二つかと思います。

この二つに翻弄されてしまうと赦しが硬直してしまう。

 

Ako

「ここを学んでいる時に、牧師先生がね、相手の過失を認めることについて、お話くださったのよ」

 

Bko

「相手の過失を認める事!?」

 

Cko

「私たちって、ついつい、クリスチャンなんだから、クリスチャンらしくしなくてはいけないって、相手の過失を 『いえいえ、私の方こそ、至らなくて申し訳ありませんでした』って、言っちゃうことない?心では思っていなくても社交辞令として」

 

Bko

「それって、『あるある』ですよね!よその国のことは知らないんですが、なんだか日本人的発想みたいな気もします。もしかしたら日本人クリスチャンの特徴かも?」

 

Ako

「先生はね、相手の過失を自分の至らなさに置き換えてはいけないんだっておっしゃったのよ」

 

Cko

「え?ある意味、目から鱗だわ。相手が過失を自覚しているのに、至らなかった私の方が悪いのだから、あなたは悪くないのよって、謙遜で美しくってクリスチャンらしいじゃないの。いいことじゃないの。誰も悪者が出てこなくって、謙遜の上に寛容で、御霊の実が二つも成っているのよ」(笑)

 

Ako

「でも、なんでもかんでも、至らない私が悪いんですって、置き換えてしまうことって、本物の謙遜かしら?寛容かしら?」

 

Bko

「社交辞令に過ぎないんだから、適当に流して済ませちゃったらいいんじゃないの?

あっ!そこがいけないんだわ。過失を曖昧に済まそうとして、しなくてもいい配慮をしてしまう。余計な親切心。」

 

Ako

「それは、過失に対して裁く思いが出て来るに違いないから、と、気まずくならないように先手を打っておこうとするんじゃないかしら。先生がおっしゃった過失を認めるという寛容さの問題ではないかしら。」

 

Cko

「自分の感情が置き去りにされるってことはどうなんでしょうね。悪くはないのに、いつも自分が悪者になってその場を一見美しく納めてしまうってこと。その時、自分の感情は凍結して置くのかしら。」

 

Bko

「う~ん、考えちゃいますね。自分の感情を大切にしていない。丸く納めてその場を取り繕っているだけですね」

 

Ako

「自分の感情をごまかし、相手の過失を自分のいたらなさ、に置き換えてはいけないという事。悪いものは悪いし、それで不愉快になったなら、神さまにそのまま申し上げていいのだ…と。私ね、そういうふうに受け止められたんですよ。なんだか嬉しかったです。」

 

Bko

「自分の感情をごまかしていると、言われて初めて気が付く部分でした。まわりを気にして、人が傷つくのを恐れて、自分が犠牲になってしまった方が早いみたいな、義侠心っていうのかしら。それって、知らず知らずのうちに自分の感情に無理させているのだってことに改めて気が付きました。それを繰り返しているうちに、自分の心が少しずつ病んでいって、癒しを必要としている人になってしまいかねないかもしれません」

 

Cko

「そもそも、私たちは罪びとなんだから、自分に対して重箱の隅を突っついて、ほじくり出すように、自分の至らなさ探しに励み、自分以外の人に対しては常に赦しの精神で寛大に何事も大目に見て、また、見て見ぬふりをすることがクリスチャンらしい…とか、クリスチャンあるあるかもしれませんね」

 

Ako 

「そうですね、罪人なんだから、自分のいたらなさという一見、謙虚に見える心で結果的に神に頼らない事になってはいないか?あるがままの感情で神さまに聞いて頂かないと、自分の心が癒されないですね。」

 

Bko

「ガイドには、自分が傷ついていることを認めなくては赦すことは難しいとありますね。

ところが、先ず、自分が傷ついていることを認めることがむずかしい。

次に、人を傷つけてしまうことを過剰に恐れてしまう。

私たちは、そういう感情に向き合おうとしないで忘れてしまおうとする傾向があると書いてありますね。」

 

Cko

「どうしてそういう傾向が起きるのでしょうか?怒りや憤りと言った感情を神様に見せたくない。要するにいい子のクリスチャンになっていなくては神様のもとに行きたくないと言う傾向ですか?」

 

Ako

「ガイドには、怒りや憤りの感情を神様の前に持って行って良いのだ、と書かれていますね。」

 

Bko

「神様とは遠慮のない間柄でいることが健全な信仰のあり方、と理解していいのかな。ガイドを書いた聖書の専門家の先生方はそうお考えだってことですね」

 

Cko

「神様との関係が健やかになるなら、傷ついてもそれを認められるし、傷ついたことを隠そうとしてあれこれ小細工しなくてすむのですね。」

 

Ako

「詩編には『嘆きの詩編とか呪いの詩編』とかあって、ダビデは神様に悪感情も全部言っていますね。取り繕おうなんてしていません。」

 

Bko

「だから、ダビデは神様に愛された。ダビデは良いことばかりでなく悪いこともかなりしていますよ。姦淫・殺人・偽証。でも、それに気づいたらすぐに周りに家来たちがいる時でも、素早く神様にひれ伏して謝りました。いつでも神様と良い関係だった。神様への信頼が半端じゃなく強かった。」

 

Cko

「結論は、私たちは不愉快な時には、神さま、かくかくシカジカで不愉快なんです。神さま、私怒っているんですよ、かくかくシカジカ。そうして心の中を全部神様にぶちまけてしまう。それでいいんですね。そして、神様のおっしゃることに耳を傾ける。」

 

Ako

「神様が、お語り下さるんですね。そして、素直に反省へと導いてくださる。感謝の思いも起こしてくださる。結果的に人間関係も下手な小細工しないでいい関係に修復して頂けるのだと思いますね」

 

 

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マラナ・タ

「ふたりまたは三人がわたしの名によって集まっている所には、私もその中にいるのである」

(マタイ18:20)