ごきげんよう!さわこです

 

午後5時の風景

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ローマ3:26

「こうして神自らが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」

この御言葉がきっかけで、信仰の友との二人デボーションに発展しました。

 

神は義であると同時に愛なるお方です。

この愛の神は、罪人が罰せられて滅びてしまうのを、どうしてそのまま見逃し、放置することができましょうか?

このジレンマのために、神が講じられた方法は、神ご自身が我ら罪人の保証人となり、事態の一切を、丸ごとその身に引き受けて処理されたのです。

これが、キリストの十字架に含まれている意味であり、贖罪の奥義の真相なのです。

 

アーメン。

私は、なかなか、贖罪の奥義なる真理を理解できませんでした。

聖書通信講座によって、初めて体系的に包括的に聖書に触れたのですが、この一番の肝心なことが靄にかかったままでした。

 

それなのに、牧師からバプテスマのお誘いを頂いたときに、即答したことが不思議でした。ただ、聖書の神様について行きたい。ついて行けば、この人生を生きていく力が与えられるに違いないという確信にすがるしか、方法はない。それだけでした。

 

では、いつ、その真理が、受け入れられたか?「御言葉」からでした。

とにかく、御言葉にすがりました。

最初に「これだ!これだったのか!」は創世記3:15と21。

 

*3:15下句「彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕く」

(彼=イエス、おまえ=へび・サタン、かかと=十字架の贖いの死)

 

*3:21「主なる神は、人とその妻のために皮の着物を造って、彼らに着せられた」

皮の着物=犠牲として死ぬことによって皮の着物が出来る=犠牲の小羊=十字架)

 

荒唐無稽な物語のような聖句が、この真理を説得してくれました。

それに先だったのは、ヨハネ福音書1章の「言」がイエスであると言うことを預言の声通信講座の学びの中で強烈に体験できていたからです。

 

*ヨハネ1:1-4「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」

 

聖霊様の働きによらなければ、聖書の真理は分からないものなんです。

 

*ヨハネ14:26「助け主、すなわち、父がわたしの名によって遣わされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしが話しておいたことをことごとく思い起こさせるであろう」

 

* コリント第212:3「・・・聖霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えないのです。

 

どうすれば聖霊様が働いてくださるのか、聖書を読み続けることだとわかりました。

読むたびに新しい気づきが与えられるんです。

 

贖いとは、身代金を払って買い戻す、自由にする、救出するという意味なんです。

十字架による罪のための贖いは終わりました。

しかし、個人的な個々の聖化も無視できません。

それを含めて、神の救いの計画は終わっていません。

 

そこ、大事なんです。

個々の信仰にとって、人生にとって。

個人的な個々の聖化。

毎日、聖書を読んでも、読む人の性質が(品性が)、新しくなっていなければ。

聖書をよく読んでいるファリサイ派や律法学者の人たちにそういう人がいました。

放蕩息子の兄もそうでした。

そこをぶっ飛ばしてしまって、「あれしない、これしない、あれしている」で救いと信仰の確認をして、完全にこだわってしまっているだけでは、信仰は聖く育たない。

神様は私たちを育てようと育てようとしておられるのですから。

だから、地上人生は真の求道人生と言えるかもしれないなあ、と思いました。

 

 

聖書を知識として読むだけとか、「あぁ!救われた、何してもいい!」とか、色々とありますが、どこまでも悔い改めて清められていく必要がありますね。

それには、私は『十字架で私も死ぬ事』だと気がつきました。

本当はこの決心と気づきはバプテスマで始まらないといけなかったのですけど。

 

実際にはそこまでわかって、砕かれて、バプテスマにつながる人は少ないのかもしれませんけど、神様は、気づかせよう、気づかせよう、と、私たちが気づくのを待ってくださっていらっしゃる。

気づくことって、神様との関係性の深まりに拠るんじゃないかって思うようになってきたんです。

 

世界史を学んだ高校時代、大航海時代・植民地主義・欧米諸国はキリスト教を背景にしているのですから、キリスト教は、とても受け入れたくないと短絡的に思ったんです。

私がキリスト教を嫌ったのは、福音を伝えるためだって言いながら、他国を侵略し征服していったキリスト教国家。

それがキリストの精神なのか?って直観的に思ったからなんです。

その根っこはここにあったんです。

ファリサイ派やサドカイ派、律法学者たちの形式的な上っ面の宗教。

そうした精神が今の私たちに繋がる個々の問題なのだとわかってきたんです。

 

キリストの十字架の死は、われわれのためになされた身代わりの死であったのですから、救いに必要なことは、すべて成し遂げられたわけですが、だからもうすんだことだから関係ないのではなく、それどころか、今も大いに関係があるんです。

 

というのは、キリストの死は身代わりとはいえ、同時に私の身におこったことでもあるからです。

そのため、私たち自身も、神に全的に献身することが求められているのです。

 

そういうわけで、キリストが犠牲となって身を捧げてくださったように、自分を供物として、神にささげるべきであるということなのです。

自分を供物として神に捧げるとは、どういう意味か?それは私も十字架で死ぬという事なのです。

 

聖所で捧げた動物は殺して燔祭として捧げました。

つまり、自分を捧げるとは、自分が死なないと捧げものにはならないのだってことですね。

ローマ12:1でパウロが書いている通りですね。

「自分の体を神に喜ばれるいけにえとして捧げなさい。これこそ、あなたがたの為すべき礼拝です」

 

聖書に出て来るファリサイ派に代表される人たちは、聖書を(律法の書を)熱心に読んではいても、自分たちの心が砕かれてはなかったんですものね。自分自身をいけにえとしていなかった。

 

今朝の月です。

 

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マラナ・タ

聖書の中のキリスト様に、出会わない限り、聖書の御言葉は、ただの文字に過ぎません。