ごきげんよう!さわこです
 
image
 
安息日学校聖書研究ガイド2021.7.22より
 
日本には、割れた陶器のかけらを継ぎ合わせることに特化した「金継ぎ」と呼ばれる伝統技術があります。
これは、水金や水銀といった貴重な金属を接着剤として用いて割れた器を修復し、さらに美しく価値あるものに再生させる技法です。
 
神は私たちの背信を赦すたびに、私たちを以前とは異なるものに再創造してくださいます。
神の尊い赦しという接着剤は、私たちの割れたかけらを継ぎ合わせ、その継ぎ目こそが神の恵みへと目を向けさせるのです。
 
そうして私たちは、神の福音を拡声するスピーカーとなるのです。
 
「恵みの御業をこの舌は喜び歌います」(詩篇51の16)
 
image
 
ダビデの犯した罪は、姦淫と殺人。盗みも。嘘ついたことも。
 
あきらかに、十戒のうちの4つの項目。
しかし、そこに至るまでの、心の中に起きた罪の芽がある。
芽が出るとは、根があると言うこと。
 
ダビデの信仰を讃える話を聞くたびに、釈然としない私でした。
 
ダビデは土の器に過ぎませんでした。
王となっても、詩編に信仰の詩をたくさん残して、後世の信者たちに、神様を讃えるメッセージを残しても、忠実な部下ウリヤの妻を盗み、ウリヤを殺しました。姦淫の結果、生まれた赤ちゃんは罪の結果の子として生まれてすぐに死んでしまった。
ダビデの背信は、罪のない二人の人の命までも奪った。
 
信仰を持ったばかりの頃、なぜ、教会ではダビデを褒めるのだろう?
なんだか、落ち着かなかった。
 
マタイによる福音書の1章のアブラハムからの系図を見ても、よろしくない生き方をした人がわんさか出てきます。
その中で、善王と呼ばれる人は、天地創造と贖いの神を信じ、神の戒めに忠実であろうと努めた人たちだった。
でも、完全無欠ではありえなかった。
 
そこが被造物の限界なのだ。
日本の伝統技術の「金継ぎ」という業に福音を例えた解説に、完全に納得できました。
 
マラナ・タ
ダビデについて、今まで、釈然と出来なかったところがはっきりしました。
詩編51編に、本気でアーメンと言えました。