ごきげんよう!さわこです
コアラの好きな、ユーカリの葉
意外と、植えているお宅があります。
コアラを飼ってはいなくても。
葉っぱがかわいいですものね。
 
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罪とは、
神との破れた反逆の関係であって、
それは自己と自己の意志を
自分の生涯の王座に置くことです。
 
この破綻した関係の中から、
一連の罪の行い(個々の罪)が流れ出るのです。
 
ジョージ・ナイト「福音に生きる」より103ページより
 
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大文字のSINが罪
個々の罪が小文字のsin
 
sinに勝利しようとして、
1つ1つのsinを叩きつぶそうとしていくのは、
もぐらたたきゲームのようなものです。
 
sinの本元であるSINをたたきつぶさなくては、終わりなき闘いです。
 
20年以上前ですが、信仰の本で読んだ喩えでした。
本の名前もの著書も覚えていませんが、とてもよくわかりました。
 
この、構図で考えると、ジョージ・ナイトさんの
「罪とは神様との関係の破綻」という論もすっきりと分かります。
 
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そもそも「人間は生まれながらの罪人だ」という知識が私にはありませんでした。
 
私は、カトリックの幼稚園に通っていたと言っても、そこで信仰教育を受けたわけでもありませんでした。
育った田舎町には、幼稚園は一つしかありませんでしたから。
選択肢はなかったのです。
宗教行事は、クリスマスの生誕劇だけ。
しかも、私は、その劇には出番がありませんでしたから、
なんだか疎外感の思い出だけです。
 
さて、中学高校時代になると、世界史で、「大航海時代・植民地主義政策」を学び、世界中がキリスト教国家の植民地になったことを知りました。そんななかで、なぜか、日本だけは植民地にならないで済んでいました。
 
それは、なぜか?は教科書では書かれていませんでした。
 
戦国時代に入って来たキリスト教は、やがて、秀吉や徳川幕府に迫害されるようになり、弾圧を受けました。
何故、弾圧を受けたかという、自由と平等と愛を説いた宗教は、為政者たちには不都合だったからです、と、学びました。
 
植民地主義政策が、自由・平等・愛か?
じゃあ、他の国々のように、植民地になった方がよかったのか?
 
日本の安土桃山時代、徳川時代は、欧米と比べて劣った野蛮な時代だったのか?
世界史で当時の欧米諸国を見ると、日本だけが程度の低い国ではないことがわかります。
だいたい異質の文化に順列をつける発想そのものが、罪なる性質ではないでしょうか。
 
クラスメートの一部の人は、こう言いました。
「植民地になりたかった。そうしたら、私はハーフで青い目で金髪の美少女よ。英語だってぺらぺらよ」
 
別の生徒は、
「バカじゃないの。奴隷にされてこき使われて家族全員、死んじゃって、今のあんたは存在しないよ」
と反論しました。
 
教科書には、書かれていない背景から、キリスト教国家の悪事は推測できましたから、中学生の私は「キリスト教は信じるに値しない」と思いました。
 
そんな私ですから、キリスト教の教えには無関心のまま大人になりました。
というよりも、嫌いな宗教と言った方がいいのかも。
 
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そんな私が「聖書の通信講座」を学ぶに至り、はじめて、聖書は何を語っているかを知ったのでした。
 
原罪説が書かれていたかどうかの記憶はありませんが、人間の父祖が、創造主の命令に背いて禁断の実を食べたことが分かりました。
 
そういえば、幼稚園で赤いリンゴを食べたアダムとエバの絵本をやおら思い出したのでした。
 
創世記の2章16節
主なる神は人に命じて言われた。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」
 
神さまのこのご命令を、アダムとエバは破ってしまったのでした。
エバにだって、アダムにだって、「食べてしまった」ことの理由はいろいろとあったことでしょう。
 
創世記3章1節から13節までにその顛末と人間の側の言い訳が書かれています。
 
 
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神様に「食べちゃダメ、死ぬからね」って言われたことをすることが罪なんだと、
「原罪論」の入る余地なしでした。
 
「人は、生まれた時から、そもそも罪人である」という原罪論。
 
この神学に対して、悩んでいる人は多いのではないでしょうか?

悩むよりも以前に、そう教えられて、そのままに信じてしまっているのかもしれません。

 

「人は罪を犯す前に、すでに罪人である」との説。

性悪説のトップに躍り出るキリスト教。

 

しかし、この性悪説に、待ったをかける人もいます。

 

「人が罪を犯したから罪人になるというのなら理解できる。

しかし、罪人だから罪を犯すというのは、どういう意味だ?」

 

では、「罪を犯す最終責任は神様にあるという事になるのではないだろうか。」

この問題意識は飛躍していると思います。

「食べてはいけないという事を人間がしてしまったのは、そういう人間を創造した神が悪い」という論理。

 

これ、アダムとエバが言いました。

 

創世記3:12「あなたがわたしと共にいるようにしてくださったおんなが、木から取って与えたので食べました」

     3:13「蛇がだましたので食べてしまいました」

 

ここから、小さい個々の罪 [sin]があきらかになります。

 

マラナ・タ

罪とは「何をしたか、しなかったか」以前の問題。

神さまの関係の破綻としての大文字の(SIN)

そこから教えたらいいんじゃないか?

原罪とは、神様との関係の破綻