ごきげんよう!さわこです
 
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曇り空だった朝、時間の経過と共に雨音が激しくなってきました。
 
今朝は、
デボーションに招かれるにふさわしいテーマを読んだものですから、
なんだか、ずーと神様の国にお招きを受けて過ごしていました。
 
新約聖書の命令とは、
復活のに力によって新しい生命に生きるとともに、
キリストの弟子である一人ひとり一人が
自己中主義を十字架につけることです。
(ローマ6:1-11の要約)
 
イエスは言われました。
「わたしに従って来たいものは、
自分を捨て、自分の十字架を背負って、
わたしに従いなさい」(マタイ16:24)
 
パウロも叫びました。
「わたしはキリストと共に十字架につけられています。
生きているのは、もはやわたしではありません。
キリストがわたしの内に生きておられるのです。
わたしが今、肉において生きているのは、
わたしを愛し、わたしのために身を献げられた
神の子に対する信仰によるとものです。」(ガラテヤ2:19-20)
 
自己中心でわがままな自我を
十字架をつけることが、
キリスト教の中心に立っています。
 
人は、道徳的に正しくありながらも、
自己中心で、かつ意地悪であり得るのです。
 
十字架につけられなくても、
人は道徳的であり得るし、
イエスにあって安全ではなくても、
人は道徳的であり得るのです。
 
マルチン・ルターも、デートリッヒ・ボンへファーも、それに気づいたのです。
 
人間性にとって
ごく当たり前の自己中心の精神から、
キリストの精神へと移行することは、
穏やかな成長とか、自然的進化とか
言うようなものではありません。
 
むしろ、根を抜き、砕き、引き裂き、
手術するかのようなものなのです。
 
それが,十字架につけられることです。
 
「福音に生きる」103-105pより
 
昨日は、久しぶりの訪問者の黒田君
 
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意地の悪いクリスチャンに出会って、
信仰から離れて行った人もいます。
どうやら日本人はクリスチャンに、
人柄の良さや人格の高潔さ、
道徳性の高さを期待するようです。
それゆえに、クリスチャンであると
公言出来ないのだという人もいます。
 
行いで救われるとは思ってはいなくても、
行いは信仰の実を示すはずだと思っていますから、
互いに対して基準を高くしてしまうのでしょうか。
 
黒田君、今夜は、お泊りしたらどうかい?
と誘いましたが、カリカリと猫缶とお刺身を(フルコースだっ)
食べて、出ていってしまいました。
 
黒田君、どこが寝床なんだろう?
今朝は顔を見せませんでした。
 
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マラナ・タ
簡単に言うなら、
クリスチャンとは
いつもキリストと共に居る人のことです。