ごきげんよう!さわこです
「キリストに従うことは、自己否定と自己改革が求められます」と、
「個人的リバイバルへの道」には(13ページ中段)書いています。
そしてマタイ16:24.25参照とありました。
「それから、弟子たちに言われた。わたしについて来たい者は、自分自身を捨て、自分の十字架を背負って、わたしには従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」
ここの聖句は難解です。
「個人的リバイバルへの道」には、自己否定・自己改革の意味を、この聖句で説明しているのです。
「自己否定と自己改革」
この言葉も、一般的用語・信仰用語として用いられます。
聖書は翻訳の問題もありますが、自己否定・自己改革と四文字熟語では、聖書には書かれていません。
この「自己否定と自己改革」との四文字熟語は、信仰書やお説教で用いられることが多いです。
その影響でしょうか。年季の入った信徒たちが、よく使います。
もちろん、信仰用語としても、肉的なクリスチャン・霊的なクリスチャンによっても理解度が異なります。
ですから、それぞれの先入観によって、読み方・理解の仕方は違って来ます。
聖霊の導きにより、霊の目が開かれなければ分からない箇所です。
あるいはこの言葉を「宣教命令」の側面で説明もされたりします。
また、
自己否定を「ワタシはノウ・他者はオッケー」として、自分の考えよりも相手の考えを優先すること、このように考える人も出てきます。
何故なら自分自身は罪に汚れているから、人のことをあれこれ言う資格はないと考えるのです。
あるいは、新しい信徒に「自己否定」を教えてあげなくては、その人が滅んでしまう、と考えている人もいるのかもしれません。
他者の心に寄り添うことが大事だから、疑問や反論は絶対しないで、他者のいう事にはすべて同調すべきである、という考えの人もいます。
つまり、
「クリスチャンの皆さん、私にいつもやさしくしてね。私が傷つくようなことを決して言わないでね」
「クリスチャンの皆さん、人を躓かせたら、いけませんよ。碾き臼をくくりつけて、海に投げ込まれますよ」
そういう、理解も出てきます。
ああ、悩ましい・・・
そうした「自分軸」を排除して、自虐的にすら見られる生き方も、自分磨きにつながる修行のようなもの。それが、自分を謙遜にして、神様に喜ばれる人間になれる。このような考え方もあります。
自分の感情を押し殺すこと=自己否定だ!
(そうかいな?と私は疑問符)
自分の頑張りや、自虐思想に染まることで、自分の我を殺すなんて、不健全。
謙遜ぶりごっご、は、やめようよ。(いつも、思っている私)
「自己否定」って四文字熟語そのものに問題がある。
キリスト信仰用語では「自己否定」の意味は、「沈めのバプテスマを受けて古い自分に死んで新生すること」だと私は考えています。
空気を読んで、相手の気持ちを汲み取って、相手に支配されてあげると言う意味なんかではない。
でも、そんなふうに「誤用」される場合もあります。
とても、悩ましい。
その悩ましさを、
イエス様に持って行き、
我が心を打ち明けることが、
凡夫に出来る唯一のことであります。
ある方は、沢山のトラクトをリュックに詰めて、家族を捨てて、宣教の旅に出ました。
そして旅先で死にました。奥様はそうしたご主人の信仰を誇りにしていました。
一人息子さんは、会社員を辞めて神学校に行き牧師になりました。
そうしたケースを知っています。奥様から直接聞いた話です。私の学生時代の親しい友は、その牧師から洗礼を受けました。
SDAのキリスト教を1896年、日本で宣教を開始された、W・C・グレンジャー先生は大学学長の座を捨てて来られました。
125年前のことです。
信仰でしか理解できない領域ですが、そのようにして、キリスト教は、世界に広がって行ったのですね。
特殊なケースでしょうか?
負わされた十字架を、自ら進んで負う生き方の一つでしょうか。
クリスチャン全員が、そのような自己否定の信仰を持っていないので、再臨が遅れているという人もいます。
日本宣教が進まない理由だという人もいます。
こうした実例を消化し切れていない私は、まだ、肉的なクリスチャンなんだなぁと思います。
そこで、頑張らなくちゃ、とか、精進しなくちゃとか、ではなく、
「イエス様に日々繋がる信仰を与えてくださっている神様が、私の神様です。」
と、告白する一凡夫の私です。
マラナ・タ
「個人的リバイバルの道」は素晴らしいテキストです。
クリスチャンには「必読書」だと思います。
しかし、読む人の信仰に応じて、理解の仕方は異なるのでしょう。
ひたすら、聖霊様の導きに拠らなくてはなりません。
誰が読んでも、共通していることは「ワタシはそれなりのクリスチャンだ」という自負心を砕いてくれる書物です。
そこが大事な点ですよね。