ごきげんよう!さわこです。
午後から散歩がてら、雨の中を出かけました。
「リバイバルはこうして起こる」184-185ページからの引用文に、私の思いを合わせて「罪の自覚は恵みに導かれる」というタイトルで投稿していました。以下、青字で投稿文
救いについてのキリスト教のメッセージの中心は神の恵みです。
しかし、律法によって罪を自覚していない人は神の恵みを求めません。
罪を自覚した人だけが、信仰を通し、恵みによって救われるということができます。
救われてこそ、キリストにあるよみがえった生活をすることができるのです。
律法の働きをよく述べ伝えなければ、
宗教心のある人々は道徳主義、律法主義になります。
「キリストを主とする」
「キリストの教えを実行する」
「キリストの模範に倣う」
これらを自分の努力でしようとするならば、救いを自力で得ようとしていることになります。
このような誤解が生じるのは、神の律法の霊的な働きがよく分かっていないためです。
神の律法の霊的な働きを伝えることを怠れば、教会は信仰体験のない律法主義になります。
以上
信仰の友から、メッセージが届きました。
彼女の思いと、私の思いと、響き合いました。
了解を得ましたので、ここで紹介いたします。
神様が私達のためにお与え下さった律法を守るべき大切なものとして捉え、守りたいとする心がなければ自分が律法を守れない人間だと知ることも出来ないのです。
本当の肉なる自分を認めることも出来ないのだと思います。
守れない自分を心から悲しむ時に、その必要感が神様を呼び求める叫びに変わっていきます。
誰しもが最初は、自分の決意や心がけで律法を守ろうとスタートすると思います。
その中で神様の仰る水準(動機、愛に基づく行い)で守れないことに気付かされます。
そのあと、神様主導で律法を守らせて頂く方法に方向転換するか否かで、
本物の?律法主義者になるかどうか…が分かれてしまうのかもしれませんね。
そして私達の船の舵をイエス様にお譲りするのかどうかということだけが求められているのではないかと。
愛の神様は、守れないものを与える神様ではないですよね
守れるようになるために手取り足取りあらゆる方向からいつも手助けをして下さる神様で、人間よりもへりくだって罪人の為に労することを惜しまれない方だと本当に驚かされます!
マラナ・タ
魂の友を神様は与えてくださいます。
ここ数年、順々に、与えられ続けています。
天国の先取りです。