ごきげんよう!さわこです。
 
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救いについての
キリスト教の
メッセージの中心は
神の恵みです。
 
しかし、
律法によって
罪を自覚していない人は
神の恵みを求めません。
 
罪を自覚した人だけが、
信仰を通し、恵みによって
救われるということができます。
 
救われてこそ、
キリストにあるよみがえった生活を
することができるのです。
 
「リバイバルはこうして起こる」185 ページより
 
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律法の働きを

よく述べ伝えなければ、

宗教心のある人々は

道徳主義、律法主義になります。

 

「キリストを主とする」

「キリストの教えを実行する」

「キリストの模範に倣う」

 

これらを自分の努力でしようとするならば、

救いを自力で得ようとしていることになります。

 

このような誤解が生じるのは、

神の律法の霊的な働きが

よく分かっていないためです。

 

神の律法の霊的な働きを

伝えることを怠れば、

教会は信仰体験のない律法主義になります。

 

「リバイバルはこうして起こる」184ページより

 

この本は、教会祈祷会で輪読しています。

8カ月かけて学んできました。

来週で終わります。


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「律法」と「律法主義」を混同してはいけません。
語るのは「福音」であって、
「律法ではない」と言う論法も間違っています。
 
そういう信仰は
、短絡した「無条件の救い」の旗を振ってしまいます。
つまり「律法」ぬきの、聖書の福音の教え。
 
そのようになって行くのは、律法を正しく、
聖書に書かれてある通りに理解していないからです。
聖書の読み方が間違っているのか、
一部の基督教神学が、そう教えているからなのか。
 
自分で、聖書を読まずに調べずに、
聞きかじったことを、受け売りしているのか。
 
ペンペン草の花はかわいい
「雑草という草はない」とは、有名な言葉です。
雑草と、ひとくくりにされる花たちの可憐なことよ。
 
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「伝道している」と言いながら、
不正確なことを、似ては非なることを
伝えているのなら、
「伝道」であると言えるのでしょうか?
 
道端にさいた、タツナミソウ。
立浪草、この漢字のごとく波立っているかのような花びら。
 
道端から、救出したいと思っています。
 
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律法は「罪」を示します。
「罪」は示されてわかるもの
 
人間の心の中に、あらかじめ
神によって刻まれた「良心」があります。
 
しかし、その「良心」が、教育や環境によって示されることのないままに育ってしまった人間は、いつでも「良心」が機能するのでしょうか?
 
 
今朝のデボーションは、
「律法」を神の導きに拠って正しく理解するならば「福音」とも言い得ることを理解ました。
パウロが「律法は養育係」と書いた所以がよくわかります。
「律法」を語ると「律法主義者だ!異端だ!」とアジテーションのように脳内で叫ぶなら、そうさせる勢力は?
神に敵対する存在に決まっています。
 
マラナ・タ
「罪」を「罪として」自覚させるのは「律法の働き」です。