ごきげんよう!さわこです。

 

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昨日、教会祈祷会が終わった後、

高齢になって自宅で療養中の信仰の先輩のお宅を訪問しました。

ハツコさん、と、おっしゃるお花の好きな可愛い方。

 

祈祷会が大好きでした。

私もやがて祈祷会に集えなくなる日もやって来ます。

 

初めて見みました。

この花。

オダマキ、ですって。

後ろに見えるのはテッセン。

 

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テッセンの隣りには、薔薇のつぼみが。

 

 

聖書は、神の御心についての権威ある啓示です。

 

聖書は品性の基準であり、教理を示し、経験を吟味するものです。

 

聖霊は、聖書の教えを解明し、実行に移させるために約束された真理の霊であり、助け主であり、弁護者です。

 

聖霊については聖書に明確に記されています。

 

(ヨハネ福音書14:15--26、16:7--15)

 

聖霊が分からないから教えて下さいと言われることがありますが、私は(↑)の箇所を読んで下さいと答えます。

 

「すべての霊を信じることはしないで、神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くの偽預言者が世に出て来ているからである」

と、ヨハネ第一4:1に書かれているように、霊のすべてが聖霊ではないのです。

 

聖霊の導きを求めて、聖書をバランスよく繰り返し読むなら、聖霊については聖霊が教えてくださいます。

 

それをしないで聖霊を知ろうとすると、印象操作するサタンに騙されかねません。

聖霊を曲解させる悪霊の働きの暗躍があるからです。

 

だから、クリスチャンの中には聖霊がわからなかったりする人もいるのですね。

 

聖霊を語るのは怪しいかのように印象操作し、偽物の聖霊に注目させ、本物の聖霊を分からなくさせるサタンの勢力があるからです。

 

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自分から聖書を確認しなければ、人から聞いた話は、自分の心に定着しにくいものです。

 

このことは、とても大事なことなのですが、

人は、親しくなりたくて、交わりを深めたくて「教えてください」とつい甘えてしまう。

 

教えることの好きな人は、

ついつい、知っている限りを教えたくなる。

 

「神様のこと」を知りたいと言うよりも、「その人」と親しくなりたい思いの方が目的だったりします。

 

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「人」と本当に親しくなりたいならば、「神さま」とまず、親しくなることが先決。

 

順序が違うと「人による躓き」も起きてきます。

とても悲しいことです。

 

躓いたとき、祈りとともに、聖書に真摯に向き合って、神に求めるならば、「神様」に出会います。

 

人に躓いたときに、別の人に頼って、その人が「聖書から適切な御言葉」で対応してくれて共に祈ってくれるなら、軌道修正に近づいてきます。

しかし、「聖書から」と言いながら、肉の言葉でアレンジしてしまうことだってあるのです。

 

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「盲人が盲人を道案内」することになってしまうという聖句もあります。

 

差別用語だと言い出す人もおりそうな時代ですから、そういう見解を持つ方々に配慮するならば・・・

 

9文字で済むことが、こんなに長くなってしまいます。

「神様のことを知ったつもりで実はよく分かっていない人が、神さまの知識のない初心者に、神さまの道を道案内することになってしまいます」

差別用語という名の「言葉狩り」「日本語文化の破壊」になっているのかもしれません。

 

マラナ・タ

真摯に神様の真実を求める人には、神様の方から近づいてくださいます。

詩編14:2

「主は天から人の子らを見渡し探される。

目覚めた人、神を探し求める人はいないか、と。」

ヤコブ書4:8

「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい」