ごきげんよう!さわこです。

 

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私たちは、悔い改め、

イエスにある喜びを味わっても、

 

バプテスマの時に経験すべき死について、

あまり知らないのです。

 

その死について、

あまりには知らないために、

 

私たちは死ななければならない自我を持っています。

 

その自我は、

常に永遠の主に

従わせておかなければならないことすら

分かってないのです。

 

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罪を悔い改めた時、

私たちの罪深さは失くなったと思いますか。

 

改心したのは、幻想だったのでしょうか。

 

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いいえ、そのとき、 聖霊の神は

自我のほんとうの性質を示し始めるのです。

 

私たちがいかに強く世に惹かれているかを示し始めるのです。

 

そして、

祈りや礼拝、神の御言葉の中に、

いかに熱心に神を求めなければ

ならないかを示すのです。

 

聖霊は、私たちが罪を愛し、

敬虔さと正しい行為によって、

それを隠していることを示します。

 

エレン・ホワイトが言われたように、

キリストの名前をとなえているだけです。

 

そして、最も心を悩ませるのは、

私は、全く悔い改めていなかったのかもしれない、 

と思うことです。

 

このように、悩み始める者はさいわいです。

 

何故なら、同じことを、聞いても、読んでも

「失礼ね! 私の信仰は本物じゃないとても、私に言いたい訳?」

という人も、現実にいます。

(今の時代のファリサイ派や律法学者かもしれません)

 

また、このように悩む人に、

「大丈夫よ。やがて私の様に変えられるから」

と、上から目線で励ます人もいます。

自分の信仰や置かれている立場に自信を持つ人です。

高慢さとはノンクリスチャンが持っているもの。

 

自分は選ばれ愛され赦されているクリスチャンという

自信がみなぎっている人もいます。

「私を見て!

私のように、この世で成功していて、

あなたのようなクリスチャンになりたいのって、

よく言われるの。ふふふ。」

 

と、心のどこかで、思っている人よりも、

はるかに、さいわいです。

 

聖霊様は、悩める心に近づかれる。

 

でも、「思い煩いは罪、だって、聖書に書いてあるじゃないですか!」

 

「確かに書いてありますね。

では、ヤコブ書4章9節はどうですか?」

 

「悲しみ、嘆き、泣きなさい。

笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」

 

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9節の前後を読んでみましょう。

 

8節 「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」

10節「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」

 

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古い自我は、

神の赦しを得るだけで

弟子となることについては

何も要求されないような

悔い改めを望みます。

 

しかし、聖霊は、

そのような道を閉ざされます。

 

そこで私たちは、初めて古い自我が

どんなものかを悟るのです。

 

イエス・キリストの

身代わりの贖罪が、

 

信仰によって、日々、

私たちの不信心な心に

受け入れられなければ、

 

誰にも希望はないのです。

 

私たちの学ぶことができる最大の教訓は、

日ごとの生命を、日ごとの死に変え、

日ごとの死を、日ごとの霊的生命に

 

変えてくださるのが、

神の御旨であるということです。

 

神は私たちが、自分自身にではなく、

イエスの生命を見出す機会を

十分に与えてくださるのです。

 

 

青字(リバイバルはこうして起こる162-165ページより)

黒字(私の思ったこと)

 

マラナ・タ

聖書は、前後を読まなくては、自分の好き自分に都合のよい所だけを寄せ集めては、神様の御心は見えてこない。

「神に近づく」「へりくだる」そうして主にある本物の喜びが与えられる。