ごきげんよう!さわこです。
今朝は、朝食後、手紙を二通、投函しに郵便局へ。
帰り道、散歩がてら、大好きな「楓の木公園」へ。
 
image
 
昨年の、昨日の 「今日の光 2020.4.19」の記録
 
記録は青字です。
黒字は、私の今日の記録。
 
 
救いに必要なことは、
イエスを信じることだけであると、
多くの人は教えているが、
真理の言葉は
「行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコブ2:26)
と言っています。
 
 
それなのに、どうして、
「救いに必要なことは、
イエスを信じることだけである」
という神学が教えられ、宣教がなされるのでしょうか?
 
 
楓の木の根元に、、こばえが。
ういういしい、楓。
 
image
 
確かに、福音の真理でありますが、
片手落ち。
コインの片面だけが伝えられ、
もう片面には、触れられない。
触れたとしても、付き合わせ程度で、
その福音は、聞く者の印象が薄い。
 
それだけではなくて、
「行いによる義」であるかのごとくに誤解を伴う。
 
かの、マルチン・ルターをして、残念なことですが、そうでした。
ヤコブ書を「藁の書」とまで言い放ち、藁くず同然に考えました。
 
しかし、新約聖書から「ヤコブ書」が削除はされませんでした。
神様の御意志が勝利しました。
 
ルターは、大きな働きをしました。
カトリック神学の誤りの一部分を正しました。
 
「一部分」です。
 
ルターは、評価すべきですが、
過大評価。、過剰評価をすべきではないと思います。
 
「聖書のすべて」は、16世紀の宗教改革において、
一挙には開かれてはいなくて、
徐々に、「漸進的に」開かれて行くのです。
 
宗教改革と言えば「ルター」「カルヴァン」が有名人。
世界史の教科書に載っている二人の名前。
名前が載っていない、重要な人物もいるのです。
 
学校の教科書だけが全てではありません。
時々、お勉強の出来る優等生がこう言うんです。
 
「教科書に載っていないことは、未承認だから、信用できない」と。
 
あ~あ、あ~あ。
そういう方とは、物事の考え方の根本が違うので、会話にならないんです。
以前、言われました。
「あなたってロマンチストね。ロマンを語るのね」と。
(はあ?)
 
image
 
宗教改革は、まだ終わってはいません。
その時代、その時代にあって、
聖書研究は進展し、御霊によって、漸進的に開かれて行くのです。
 
今の時代の神学が、ヤコブ書を「藁の書」だと言い続けているでしょうか?
現代の宣教師や伝道師が、「ヤコブ書を読むにあたわず」と説いているでしょうか?
 
新約聖書は、すべて、旧約聖書によって書かれています。
 
旧約聖書の「預言の成就」であり、
旧約聖書の「解説書」でもあるのです。
 
聖書通読を繰り返して20年。
旧約聖書の中に、隠れているイエス様を見つけ出すよろこび。
そして、新約聖書に出て来る「聖句」の元ネタを見つける感動。
「新約・旧約」の「約」とは「約束・契約」
 
「訳」ではないのです。
救い主(ヘブライ語でメシヤ・ギリシャ語でキリスト)であるイエスの生まれる前を「旧」
生まれてからを「新」と便宜上読んでいるにすぎません。
 
ユダヤ教はの聖書は「旧約聖書」
キリスト教の聖書は「新約聖書」
なんていうのも、大いなる勘違い。
 
春から初夏に咲く、野の小菊
ハルジオンです。
 
image
 
野菊、と言ったら、訂正されました。
「ハルジオンです」
 
ハルジオンだと思って言ったら
「ヒメジョオンです」
 
ヒメジョオンだと言ったら
「源平小菊です」
 
三年ほど経って、ようやく見分けがつくようになりました。
 
image
 
「信仰の戦いを
立派に戦い抜き
永遠の命を手に入れ、
十字架を負い、
自己を捨て、肉と戦い
日ごとに主の足跡に従う」
のです。
 
救いを得る上で、あなたにできることは、
何もないと考えることは致命的な誤りです。
 
あなたは天の働き手と協力しなければならない。
あなたの負うべき十字架があり、
永遠の都に入る前に越えるべき壁があり、
真珠の門に到達する前に登るべき梯子がある。
 
その時、自分の無能力と弱さを認めて、
神に助けを求めるようにと、
天からの神の招きの声が聞こえるはずです。
 
image
 
昨夕の月も、きれいでした。
今日は、上弦の月。
 
image
 
 
オオイヌノフグリ、という呼び名だけではないのです。
 
星の瞳、
ベロニカ(敬虔な修道女の青い瞳から)
とも呼ばれています。