ごきげんよう!さわこです。
2021年春の祈祷週読み物です。
春の祈祷週が始まりました。
初日は「悲しみから喜びの歌へ」
サムエル記上 1章27節
わたしは、この子を授かるようと祈り、主は私が願ったことをかなえてくださいました」
初日の4ページにわたる読み物を要約しながら、受けたことをまとめたいと思います。
読みっぱなしにできないほどの、大切な祈りの姿勢を学べたからです。
最後の士師であるサムエルの母、ハンナは、エフライム族の末裔であるエルカナの二人の妻の一人でした。
夫にとても愛されていましたが、子が生まれないということで、夫はペニンナというもうひとりの妻を迎えていました。
ペニンナは次々と子を産み、それゆえに、彼女はハンナを蔑んで意地悪の限りを尽くしていたのでした。
エルカナは女性を見る目がなかったのかもしれません。
鷹揚過ぎで、細やかさの欠ける夫だったのかもしれません。
愛しているはずの妻ハンナの哀しみへの配慮のない夫でした。
(鈍感な男です。いらっとしますよねっ。笑)
士師記の時代は、道徳的にも霊的にも退廃しており、旧約聖書の暗黒時代でありました。
エルカナの家庭のような霊的に、さらに人間関係における危機的状況は、この時代のイスラエルの国家全体縮図とも言えました。
イスラエルの民を聖なる礼拝に導くべき指導者たちは、「主を知ろうとしなかった」(サムエル記上2章12節)のです。
これが、イスラエルの民が、道徳的・霊的危機に直面した最大の理由でした。
礼拝は主の御前で行われなければなりません。
人ではなく、
神が礼拝ので中心とならなければなりません。
讃美、祈り、説教、
またその他の礼拝におけるすべてのものが、
人ではなく神に向かってなされる礼拝が、
私たちに求められているのです。
ハンナは、一人になって嘆き悲しむためにではなく、
祈りによって魂の重荷を主の前に持って行きました。
ハンナは神との真の関係は、求めるだけでなく、
与えることによって築かれることを知っていました。
ハンナの祈りの誓いは、
マリアの捧げもの同様に、
犠牲を伴う非常に尊いものでした。
誓いは礼拝する人の自発的な行為です。
誓いは礼拝なのです。
真の礼拝には犠牲が伴います。
時間、準備、献金、そして什一です。
しかし、何より、
礼拝に犠牲を払ったのは、
私たちではなく神です。
神は独り子を与えてくださいました。
人生の苦い経験でさえ、神はそれを用いて
素晴らしいものを生み出してくださいます。
神に信頼することの意味を、
私たちに教えるために、
神は最も辛い試練さえも用いることができるのです。
以下は、私の信仰の姉妹の言葉です。
へブル12:10「霊の父はわたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」
このみ言葉によって、神様の御目的がはっきり分かった時、試練を受け入れることができるようになりました。
ハンナは、自分では制御不能な状況の中で、神に信頼することを学びました。
彼女の経験した苦しみや試練は、神に信頼するようにとの招きでした。
ハンナは祈りの答えを得る前に平安を見出したのです。
マラナ・タ
神様が私たちを見捨てることはないという最も力強い証拠が、士師記・サムエル記にも見ることができます。
ハンナの祈りを通して、知ることができます。
神は働いておられます。
そして、その計画を実行するためにハンナをお選びになりました。