ごきげんよう!さわこです。
モッコウバラが咲きました。
 
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神様は、一人一人と日毎に結びつき、
関係を深めたいと切に切に願っておいでです。
 
しかし、神様は、盲目的な信仰を
期待してはおられません。
 
素直な信仰と「盲目的信仰」は
明らかに違うのです。
 
自分の意思によって、
神様にお従いすることを決心することと、
 
人の言いなりになったり、
人がそうしているから、それじゃあ自分も・・・
 
行き当たりばったりの成り行き任せや、
自分の意思ではなく多数派に付いていくだとか・・・
 
せっかく、神さまに与えられた自由意志を用いない。
そういう無責任を「神様にお任せ」と言えるのでしょうか。
 
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救いと赦しという神の賜物を
受け入れるためには、
神と協調していく努力が必要です。
 
努力するって、自分で頑張って
神様を頼らないことじゃない?
神さま無しで、生きていこうとすることじゃないの?
 
赦しは無償の賜物だから、
自分は何もしちゃあいけないのよ・・・
努力するって、
「信仰による義」「恵みによる救い」に
反しているんじゃないの?
 
いったいどうして、こんなふうに
勘違いする人が出てくるんでしょうか?
 
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救いを妨げるものは
捨て去ることも必要です。
 
捨て去ると言う事は、
「神様にお任せしましたから」と言えば、
自動的に捨てられるものでしょうか?
神様が、捨ててくださるんでしょうか?
 
捨てがたくて握りしめていても、
神様が手をこじ開けて、捨ててくださるのでしょうか?
 
いやだ!いやだ!
と言っていても、神様が奪い取って捨てるのでしょうか?
 
神さまの愛は、強制しません。
神さまの愛は無理強いしません。
神様は、自主性を重んじられます。
 
捨てた方がよくはないですか?
あなたも実のところ、棄てた方がよいと思ってはいませんか?
 
「もし、あなたが、捨てたいと願っているならば、
捨てる勇気をわたしに求めなさい。
捨てるための知恵をわたしに求めなさい。
と、神様は、言ってくださいます。
 
「求めなさい。そうすれば、与えられます」
 
人間が捨て去ることを決心するなら、
神様は、哀れみ深いお方ですから、
捨てることができるように、導いてくださる。
助けてくださる。
 
 
つつじのようですが・・・花の形がちょっと変わっています。
 
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アダムたちにサタンが介入した時から、
人間は神を無視して生きるようになったので、
神の憐れみを悟るのは容易ではない。
 
そうなのです。
神様との関係がないならば、
神の憐れみが分からない。
神の憐れみを信じられない。
 
 
カラスノエンドウです。
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マルコ9:14-29
人々が、悪霊にとりつかれた息子をイエスの下に連れてきました。
父親はイエス様に言います。
おできになるなら、私どもを憐れんでお助け下さい」
 
23節、イエスは言われます。
『できれば』というか。信じる者にはなんでもできる」
 
父親は、イエスを信じ切ってはいません。
不信の父親です。
イエスの憐れみが、自分たち親子に注がれると信じ切っていません。
「おできになるなら」言う言葉に表されています。
 
”汚れた霊に取りつかれて、所かまわず地面に倒れ泡を吹き出し歯ぎしりをする状態は、幼い時からずっと続いており、だれも治せなかったのです。
エスの憐れみを悟るのが容易でない人間がここにいます。
 
24節 その父親はすぐに叫びました。
「信じます。信仰のない私をお助けください」
 
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マラナ・タ
信仰のない時代に生きている私たちです。
神の憐れみを悟ることの出来ない私たちです。
 
その父親の様に、祈ることができますように。
主よ、祈ります。
「主よ、信仰のない私たちをお助けください」