ごきげんよう!さわこです。
昨日は朝からの雨。
午後になってようやく雨が上がりました。
紫陽花・芙蓉・木槿の枯れ物たち。
 
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雨のしずくを受けて、ますます美しい。
 
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今回は、通読が、毎日うまく回っていないのです。
読めない日があり、遅れて読む日があり。
数日分をまとめ読みで、追いつくと言うこともできません。
 
まっ、いいか。そういう年まわりもあるか・・・
必死になって、その日その日のノルマをこなすような、読み方をしたくはないし。
 
愛する人とのデートの時に、まるで、ノルマをこなすがごとく、出かけて行って恋人は喜ぶか?
子どもとの約束も、約束厳守にこだわって、遊びに行っても、母の気持ちが義務感だけでの約束遵守なら、子どもも反抗的になろうものよ。
 
神様との関係も、バプテスマを受けたから、クリスチャンたるもの、聖書を義務感だけで(それでもその中に喜びを神様は見出させてくださるから20年、順調に続いてきたのです)聖書に向き合うと言うのも、どうなんだ?また、それを理由として、通読をしないことの言い訳というわが身の怠慢さを正当化する卑怯な真似もしたくはないが・・・
 
との、蘊蓄を足れるのもこの辺に留めておきまして・・・
 
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さて、本論に入ります。
一昨日の通読箇所、使徒言行録6章 を読みながら、「リベルテンの会堂・知恵と御霊により語る」をキーワードに今朝のデボーションになりました。
以下
 
「しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった」使徒言行録 6:10
 
ステパノの語ることはすべて知恵と御霊によっておりましたから、リベルテンの会堂に属する人々の議論に対抗できたのでした。
 
リベルテンとは、ラテン語で「自由にされた者」
奴隷から解放されたユダヤ人たちとその子孫を指す、との新改訳の脚注を読んで、よく聞くリベラルの語源は「自由」なんだとわかりました。
 
私たち、キリストに贖われた者は、サタンから解放されたリベルテン。
しかし、キリストに捕らえられたので、キリストの奴隷となりました。
 
キリストの奴隷になることこそが、真の自由人!
 
キリストは真理そのものです。
「・・・真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)
 
「主の霊のおられるところに自由があります」(コリント第ニ3:17)
 
「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度と繋がれてはなりません。」(ガラテヤ5:1)
 
「わたしたちがキリスト・イエスによって得ている自由」(ガラテヤ2:4)
 
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キリストを信じたと言いながら、御霊による知恵の言葉(聖書の御言葉)を根拠に語らないなら、この世の王であるサタンの偽リベラルテンたちに言いくるめられてしまうかもしれない。
 
多分、実際に、言いくるめられると思います。
私は、言いくるめられてしまうと思います。
 
サタンは、人間より賢いし、人間より聖書を知っていますから、聖書の言葉を文脈からではなく、一部分の魅力的な真理と見えるような、博愛精神と見えるような聖句を選んで、私たちを誘惑するんです。
 
イエス様を荒野で、試みたように。
「神の子なら・・・これこれしてみせよ」なんてね。
 
私たちに対しても、次元こそ違え、レベルこそ違え、サタンは誘惑します。
 
サタンは光の天使を装うのですから。(コリント第ニ11:14)
 
 
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男はアダムの子孫であることを、女はエバの子孫であることを、覚えていなくてはならない。
蛇に化けて、サタンがエバに言った言葉。
 
女の私には、素敵に聞こえる言葉だもの。
 
「女が見ると、その木はいかにおいしそうで、目をひきつけ、賢くなるように唆していた。女は身を取って食べ、一緒にいた男にも渡した」(創世記3:6)
 
おいしいもの 大好き、
目を引く きれいなもの 大好き、
賢くなりたい。
全部、もっと もっと。
そして、お喋り大好き。
初めて会った人とも、けっこうお喋り可能。
大阪のおばちゃん的に「飴ちゃん食べる?」
 
「人類のあけぼの」には、蛇は音楽のような声で、彼女の素晴らしい美しさを巧みにほめ続けた、と書かれています。
 
そして、影響されやすい人は、良い意味でも悪い意味でも影響力がある。
騙されやすい人は、気づけば騙す人の片棒を担いでしまっている。

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きちんとできなくても、聖書通読を諦めないで、続けていたからこその今朝のお恵みでした。
「諦めないで祈り続ける」ようにイエス様は、さまざまな例えてお語りになりました。
 
クリスチャンの潔さとは、スパッと諦めることではなく、諦めないで祈り続ける執拗さ。
神様を信じ続ける、信頼し続けること。それこそが、ほんものの潔さ。
 
 
マラナ・タ
こうしてエデンの園で悲劇はj始まった・・・
しかし、人間に選択の自由をお与えになった創造主は、同時に贖い主でもあられて、神さまの戒めに背いて、神から心を離した時のために人類の救済計画を、予め神様は用意しておられました。
聖書は「道徳書」以上のものです。
人類が失った「いのち」を神様ご自身の犠牲によって回復してくださるという大テーマです。