ごきげんよう!さわこです。

 

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ため込んだ聖書通読。

20回目の今回は苦戦しております。

 

初回の時、2年かかりましたが、今回はどうなるかしら?

 

通読を始めてから20年を迎えて、

聖書のポイント、ポイントを抑えて、深く広く高く、聖書を学んでいくための新しいステージなのかもしれない。

今回は通読はお休み!なんて決めつけないで、一年間で終わらせようと焦ったり神経質になったりすることなく、気持ちを軽く持って行きたい。

 

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通読表では、昨日の箇所。

今朝は、早起きできたので、使徒言行録1章から5章まで読みたいと思って読んでいるうちに、4章で留まりました。

 

さて、使徒言行録   4章32節

「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた」

 

信仰を持ったばかりの頃、キリスト教に関するありとあらゆる信仰書を読みまくっておりました。

そんな中で読んだ本の中に、「共産主義思想の始まりは初代教会にあった」と言う文章が目に留まりました。

 

著書名は覚えていませんが、左翼的リベラル思想のクリスチャンのようで、聖書をこんな感じで論じることは、なんだかなぁ?と思いました。

 

こうした聖書の読み方があり、教え方もあるんだという知識として留めて、その方の書かれた視点は、自分の信仰には受け入れたくないと思いました。

 

聖書を人間側の主義主張に活用する政治的クリスチャンもいることが分かりました。

 

政治的なことでないにしろ、自分を正当化するために、聖書の言葉を使うとか。

慰めのために、メジャーな聖句を引用するとか。

手厳しい、聖句については覆いをかぶせてしまうとか。

 

そういう読み方だって、左翼思想で、イエス様を革命家だ、と論ずるのと変わりはいないではないか・・・

 

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では、私自身の聖書への向かい方はどうなんだ?と

自省するきっかけになりました。

 

個人的なご利益を求めてはいないか。

クリスチャンになったら、死んだら天国に行けるんだよ、とか。

キリストを信じて祈れば、願うことは何でもかなえられるんだよ、とか。

病気だって治るんだよ、とか。

入学試験も合格するんだよ、とか。

今度のコンクールで、良い賞を取れるように祈ってください、と頼まれたりとか。

 

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新改訳聖書の注釈には

「しばしば、初代教会の共産主義と言われるが、現代の共産主義とは根本的に異なる。宗教的自発性に基づく一時的なものであった」

 

 

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共産主義や社会主義が、真の平和と自由と平等をもたらすかのように、喧伝される時代がありました。

そういう時代の思想に、聖書もまた利用しようとする人たちもいたのだと思います。

 

また、聖書の中にある「創造と贖い」という核心を脇において、「自由・平等・博愛」の精神だけを取り上げて、クリスチャンたちの善意を利用する人たちもいるのです。

 

イエス様のお言葉を思いました。

「いいですか。私が、あなたがたを遣わすのは、狼中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく鳩のように素直でありなさい。・・・人々には用心しなさい。・・・」(マタイ10:16)

 

この世の中には用心しなければならない人がたくさんいます。

 

「善意は必ず、悪意ある人の心を溶かして変えて、理解してくれて好意的になってくれる」なんて感動の物語を作っていいのでしょうか。

そういう場合も無きにしも非ずですが・・・

 

素直と賢さ、従順さと識別力は、この世を渡って行くにあたっての両輪。

 

「光の天使を装う敵」(コリント第2・11:13-14)が必ずいると、聖書にも書いてます。

 

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「夢見る夢子さん」と言われていた伯母が「疑うなんて、心の汚い人のすることよ」が口癖でした。

大きくなるにつれて、私はその伯母から「反面教師的」感化を受けました。