ごきげんよう!さわこです。

 

昨日の午後、にら一束を買いに遠回りしてさらに遠回りして行きました。

朝、2000歩ほどしか歩いていなかったので、もっとあるきたかったからです。

 

ピンクの椿に出会いました。

 

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福音における神は、我々の痛みの解決者であり、我々の傷の癒し主であり給う。

一言で言えば救い主であり給う。

 

救いとは何であるか。

救いとは、我々のこの敗れた現実を、神が包み給うという音ずれである。

徹底的に包み給う神、これが救い主なる神である。

 

我々の現実の破れは、望みなきまでに疲れ果てた破れである。

 

しかし、福音は「望みなき者にも望みがある」という音ずれ、否、むしろ「望みなき者にこそ望みがある」という音ずれである。

 

この包み給う神の故に、我々の痛みは解決され、我々の傷は癒されるのである。

この神の痛みは、神の愛である。

 

      「神の痛みの神学」26ページから

 

116ページまで読みましたが、先に進むのは小休止。

線引きした所を振り返り再読しています。

 

以下は、私の精神世界の変遷のあかしです。

 

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私は、神道・仏教の混在した創造論・道徳論の日本教とも言える文化の中で育ちました。

思ったのでした。

 

聖書を、丁寧に学ぶSDAの環境下で、私の生育歴は良き土壌となりました。

 

聖書の神様を、いわゆる正統派を自任しているキリスト教の「キリスト神学」や、世に流布している「進化論」説に惑わされないで聖書を読めたのは、単純に「おてんとうさまは、全部見ておられますよ」に尽きる、「真実の神様」の存在を無意識のうちに私の内に内蔵する神の声の導きだったと思います。

 

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「神の痛みの神学」にはっきりと解説されている、福音(十字架に統合された神の痛みのアガペの愛)は、神道にも仏教にも強調されていませんでした。

 

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十字架を掲げて狼藉の数々を世界中で行ってきたキリスト教主義国家を私は軽蔑していました。

中学高校時代の世界史の教科書によって目撃してしまいました。

史実を淡々と書いているだけでしたが。

 

私の想像力は、そこに思いを留めてしまいました。

私の想像癖は、アン・シャーリー(赤毛のアン)によって、開花していました。

 

聖書を学び、この十字架の愛を知り、

神様は、日本の神道・仏教では隠されていて容易には見つけ出せないこの福音を、私に見せるために、私のキリスト教への反発心と想像力を用いて「時を待っておられた」と思いました。

 

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ですから、私はクリスチャンになっても、

 

「仏教は偶像礼拝、神道はアニミズムの多神教。

真実の神は、唯一神のキリスト教だけ。

間違った異教の神様を信じている日本人を救い出さなくてはならない。

そうしなければ、滅んでしまうのだ。

仏壇や神棚はサタンの象徴のようなものだから、家にあるならば、壊さなくてはならない。」

 

こんなふうな、過激とも思える思想には、耳を貸しませんでした。

論争になるのが嫌だったから、黙していました。

 

しかし、世の中のキリスト教界の流れは、近年、変わってきたようです。

 

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マラナ・タ

行きつ戻りつしながら、「神の痛みの神学」を紹介していきます。

そして、日本教の同胞たちに、「福音」を伝える準備をしたいと思っています。