ごきげんよう!さわこです。
 
一月の最終日になりました。
この地上を、コロナ禍は、まだ覆っています。
あたりまえの人との交わりが、あたりまえでなくなって一年になりました。
 
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今日の光 2021.1.31より
 
人の救いを引き受けられた方が、神の栄光の反映であり、神の本質の完全なる現れです。
 
私たちの受けるべき死は、キリスト・イエスの上に負わせられました。
 
全く、そのような報いを受けるに値しない私たちが、永遠の命を受けるためです。
 
私たちはキリストを蔑ろにし、拒むことによって、永遠の命のための、ただ一つの機会を捨ててよいのでしょうか。
 
 
アオサギたちも、ソーシャルディスタンス
 
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タイトルは、「キリストにある永遠の命」から
「大和撫子クリスチャンになる」に変えました。
 
以下、信仰の証しになってしまいました。
 
永遠の命、ということを、世界中のどのくらいの割合の人たちが信じているのでしょうか?
 
日本人の多くは、死んだら「天国」「極楽」「地獄」「あの世」
それぞれの思いのままに、どこまで信じているのか、分からないけれども信じています。
 
テレビなどでは「死んだら天国に行って守っていてくれる」と当たり前のように会話されています。
どこまで、本気で語っているのでしょうか?
 
脚本に書かtれているから?
街中での無作為のインタビューですら「死んだ人は天国で・・・」と、言っています。
なんなんだろう?
「死んだら天国教」信者か?
 
私は、39歳でセブンスデーアドベンチストキリスト教会の教会員になりました。
それまでは、神仏習合した日本人の死生観の中で、神様も仏さまも、違和感なく受け止めて生きて来た「やまとなでしこ(笑うところ)」の一人でした。
 
ある時までは、日教組の教えるままの自虐史観に染められて。
大手メディアの報道を鵜呑みにして、世の評論家の評論にうなずいて。
それでも、日本人であることを恥とする意見を聞くと不愉快になりながら、確固たる価値観もなく、時代に流されていました。
 
30代半ば、「確固たるもの」の必要性に迫られて、いやあ、実にあれやこれやと勉強しました。
毎日、夕食の片づけを終えると、本を積み上げて、自学自習する姿に、夫には、「高校時代にそこまで勉強したならば、お前、東大に行けたぞ」と茶化されました。
 
これは、シラサギ。
私の町の川辺には、いろんな鳥が棲んでいます。
 
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シラサギ、飛んだ。
 
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真理を真実を、something を、求めていたのですね。
 
詩編14:2
「主は天から人の子らを見渡し、探される。
目覚めた人、神を求める人はいないか、と」
 
どうやら、私が、求めていた「真理、真実something」とは、聖書の神様だったらしくて、神様の側からも、私は探されていたのかもしれません。
 
シラサギ、飛んだ。また、飛んだ。
望遠つきのカメラが欲しい。
 
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ふしぎな機会を与えられて関心のなかった「キリスト教会」よって「聖書通信講座」を学ぶようになってしまいました。そこで、教会には一度も行くことなく(キリスト教会はウソばっかりの偽善教だと思春期以来、世界史の教科書から思っていました。)
 
数か月後、決定的な瞬間がありました。
生ける神キリスト様に捕えられてしまった。
拿捕された、としか言いようがない。
首根っこをつかまれたとしか言いようがない。
 
自分から、市内地図でSDA教会の場所を探して、一人で尋ねていきました。
そして、毎安息日には、毎回出席。皆勤賞ものでした。
もう、行きたくて、行きたくて、しょうがない。
聖書の神様に会いたくて、聖書の言葉を聴きたくて聴きたくてどうにもならない。
一種の、イエス・キリスト様との恋愛状態です。
 
家族かな?
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一年後、当時の牧師先生から突然の電話。
 
「さわこさん、今度の講演会に、バプテスマを授けることの出来る牧師先生がいらっしゃるのですが、いかがですか?僕はね、まだ若くて、その按手礼って資格をもらってないのですよ」
 
電話越しに、即答してしまいました。
 
聖霊の神様が関わりはじめると、こんな大胆不敵なことが起こってしまうのですね。
しかも、キリスト様への「熱」は下がらない。この30年、どんどん上昇する一方です。
分からないことが出て来ると、テーマを決めての「一人聖書研究」をしないではいられない。
 
これを、愛というのでしょうか?
神様の愛への応答なのでしょうか?
なんなんだ?わたし?
 
「永遠の命」については、聖書に書かれているので信じるようになっていました。
 
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」
(ヨハネ5:39.40)
 
マラナ・タ
「あなたみたいに聖書を着た状態で生きていたら、かえって、引いてしまわれて伝道にはならない」と言われたこともありました。
「伝道」できたら、それに越したことはない。すばらしいことですが。
私は、それよりも、その前に、伝道云々の前に、生きていられないだけなのです。