ごきげんよう!さわこです

2017年8月4日にまとめた「アドラー心理学入門」の投稿〈その6〉を再編集しました。

 

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「中性の行動」とは

①  自分は他の人の期待を満たすために生きているのではない。他の人は自分の期待を満たすために生きているのではない。(互いの期待を満たすために生きているのではないのです。)

 

②  ある人の行動が、共同体において実質的な迷惑を及ぼす不適切な行動であれば、手続きを踏んで改善を要求する権利はあります。では、共同体に迷惑をかけさえしなければ、適切な行動であるかといえばそうではありません。

 

③ 適切でもない、不適切でもない行動を「中性の行動」といいます。

中性の行動に対しては、本人の意志を尊重し、頼まれもしないのに介入していく権利はないということです。

他の人の行動、あるいは生き方が自分の気に沿わないとしても、相手の課題ですから共同の課題にするための手続きを踏むことなく介入することはできません。

 

④  このような考え方とは相いれないと思われるかもしれませんが、対人関係のトラブルは、相手の課題に許可なく踏み込むことから起きることが多いのです。

 

「自立とは」

⑤    よく自立というと、何でも一人でこなすことだと、思う人もあるようですが、そうではなくて、できることは自分の力で解決する、しかし、自分の力では解決できない問題が生じたときには助力を求めるということも含んでいるのです。

 

⑥   他の人は依頼すれば自分を助けてくれるかもしれませんが、それはその人の善意であって義務ではないのです。このことは、他の人から自分の気持ちを察してもらったり、思いやられることを期待してはいけないということです。黙っている限りは、自分の思いは人には伝わらないということです。

 

干し柿の製造中です。

寒く、晴天が続きますので、うまく仕上がりそうです。

 

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 自己犠牲について考える

ここで、本論から脱線しますが自己犠牲について考えたいと思います。

キリスト教会では、自己犠牲という言葉が用いられます。

 

他者のために自分を犠牲にすることを勧めているように理解するのは、この言葉を表面的にとらえているのではないでしょうか。

しかも、この言葉を拡大解釈して自分の日常に置き換えると、場合によっては病的になるのではないでしょうか。

 

『友のために死ぬこと、これ以上に大きな愛はない』イエス様のお言葉であります。

 

三浦綾子さんの『塩狩峠』の主人公の生き方や、線路に落ちた人を救うために死なれた人もいます。

どちらも実話です。映画『ハクソーリッジの奇跡』もセブンスデーアドベンチストの青年の実話です。

 

クリスチャンとして生きるということは、それを実行するように期待されるのでしょうか。

自分が自分に課した期待であり、他者がクリスチャンに期待していることでしょうか。

 

『神様への信仰』に神からの恵みが働くとき、自己犠牲を厭わないほどの神の愛を実践できてしまった結果の行動なのでしょうか。

 

キリスト教文化圏ではクリスチャンになる選択を自分の意志以前に決心するケースもあるかと思います。

しかし、日本人の場合は、強制されてではなく、自分の意志で洗礼を選び取る人が多いのではないでしょうか。

 

他人(自分以外)の期待を満たすことそのものを自分の意志で選択することもあります。

例えば家族関係においてそうです。

育児や介護に励むことが苦労はあっても、投げ出したくなるほどの辛さがあっても、頑張れるのは家族愛の故ではないだろうかと思います。

いざというとき、自分の身を犠牲にして他者を助けることをしてしまえるのは、神秘であると思います。

 

庭ねこの、加藤とらきち清正君です。

 

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自己愛について考える

 

他者のために生きることが善であり、自分のために生きることが悪であるかのように、思い込んでいないでしょうか?

 

「自分を愛するように人を愛しなさい」という聖書の言葉から、自分を愛することも他者を愛することも同列に大切であるというメッセージを聴くことはできないでしょうか。

 

自分を愛することが、利己的な愛、自己中心的な愛になり下がってしまったら、間違いであることは周知の事実です。

 

罪が侵入した世界に生きる人間にとってはそういうケースが多いから自己愛が戒められるのでしょう。

自分を愛せない人は、他者を健全に愛せないのではないでしょうか。

自分を愛せない者にとっての自己犠牲は、病んだものとなってしまわないでしょうか。

 

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さて、本論に戻ります。

 

「中性の行動」とは、

「自己主張と非自己主張」について

⑦     そこで、ストレートに主張すればよいのです。

しかし、そうすることにためらいを感じてしまうことがあります。

自己主張しないことが美徳であるかのように言われることがあります。

 

これらの背景には、主張しなくても分かってもらえて当たり前と思う人がおり、頼まれなくても何をして欲しいと思っているかをわからないといけないと思う人がいるということです。

 

このことを思いやりとか気配りとかいう言い方で勧められることすらあります。

 

(私は海外生活の経験がありませんから、外国にもこのような風習があるかどうかはわかりません。また、古い時代の感覚をもっていますから、自己主張は慎みが無い、阿吽の呼吸で人の思いを察することを美徳とする、環境で生きてきました)

 

⑧     非主張的であっても、「態度、素振り、雰囲気、涙など」で、主張することがあります。

また、今の状況を語ることで、相手に要求したり要求を断ったりする場合があります。

このように間接的な自己主張を、謙虚で好ましいと考える人もいます。

 

(しかし、私は近年になって、このような持って回った自己主張に、ある種の賢さを感じるようになりました。人の憶測力や推測力を試しているような、また、人の善意を引き出そうとしているような、要するに人の心を操作・支配しようとする一種の作戦、戦略、謀略を見るのです。しかし、よくよく考えてみると、言葉でうまく伝達できない赤ちゃんや幼子は、泣く、怒る、笑う、という方法で、自己主張し大人を操作していますね。)

 

⑨     察しと思いやりは、いつもうまくいくとは限りません。

 

うまくいかない時の危険は大きいのです。

 

特に、「察し」で伝達できる時代は変わりつつあります。

「察しの文化」の中で育ってきたにもかかわらず、「察し」がうまく機能しない経験もしてきましたし、「したい、させてください」と思う頼まれ事には「はい」と即答します。

 

「ことわる」「再度、頼まれる」「なお。断る」「さらに頼まれる」「そこまで言われるならば」というセレモニーをすることの面倒さを感じるようになり、『イエス、ノウ』で答えるようになりました。

ですから、好まれる時もあれば、慎みが無い、と言われることも起きるようになりました。

 

 

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「分からないと思って付き合う」

 

⑩     そもそも相手を理解することは不可能であると、アドラーは考えていますが、それを前提としてなお、『他の人の目を見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる』という意味での「共感」の重要性を説くところがアドラーの真骨頂です。

 

⑪ 今日、私は、この瞬間において、この人と初めて会うのだ、と思って付き合い始めます。

 

そうすると過去はもうないわけです。

一週間どころか昨日すら存在しないと考えてみると、たしかにこの人は、嫌なことを言ったかもしれないが、今日同じことをこの人が言うともするとも限らないのです。

 

そう思って付き合い始めます。あるいは、するとは限らないわけです。そうすると、思いもがけない発見があります。そのように思えて初めて、その人との時間は死んだものではなく、生きたものになります。今日という日は、昨日の繰り返し、延長ではないのです。

 

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「楽観主義と楽天主義と悲観主義」とは

 

⑫     楽天主義は、何が起こっても大丈夫、何が起こっても悪い事は起こらない、失敗するはずがないと思うことです。

ですから、何とかなると考えて結局、何もしません。

楽観主義は、そうではなくて、現実を見据えるのです。

現実をありのままに見てそこから出発します。

悲観主義は状況に対する勇気を欠いているので、諦めて結局何もしません。

 

⑬     アドラーは、人があらゆる状況で楽天的であれば、その人はまちがいなく悲観主義者だと言っています。

敗北に直面しても、驚いたふうにはみせず、すべてはあらかじめ決まっていると感じ、楽天家であるように自分を見せているだけなのです。

 

⑭     アドラーは楽観主義を子どもたちに吹き込む必要を説いています。

私たちが選べる選択肢は、何とかなるかどうかはわからないけれども、何ともならないと考えることはない。

とにかくできることをやろう。できることをしよう。とりあえず、できることをしてみよう。

できることをしてみれば、事態は変わる。

問題はすぐに解決することはないかもしれませんが、深刻になることはありません。

深刻であることと、真剣であることとは全く別のことです。

 

⑮     著者(岸見一郎氏)がアドラーから学んだことは、政治的なスローガンとしてではなく、実質的な意味での民主主義の重要性です。

かつてナチスは近代の民主主義憲法の典型であるとされるワイマール憲法のもとで合法的に誕生しました。

民主主義は、このように、民主的な手続きを経て自殺することができるのです。

 

⑯     民主主義は、手続きしかないのであって、従って皆が誤まるということはあり得ます。

共通感覚が全面的に誤まっているということはあり得ます。

私たちは、民主主義が自殺することがないように絶えず気を配っていかなければなりません。

誰かに強制されたり、あるいは、与えられたものを正しいものとして無条件に受け入れるということなく、自分で考えて正しい判断をしていかなければなりません。

さもなければ、衆愚政治という言葉があるように、民主主義は質の悪いものになってしまいます。

 

⑰     私たちのしていることは、何らかの形で全体につながっていきます。

池に投げられた石が波紋を描くようにその影響は止まるところがありません。

一人の力は意外に大きいと考えて自分ができることから何かを始めてみてほしいのです。

 

⑱     ある人が、「沢山の聴衆の何人があなたのメッセージを理解できたと思うか」とアドラーに尋ねたそうです。

アドラーの英語は必ずしも分かり易いものではなく、また、アドラーの語ることそのものが分かりにくく、聴衆の好みに合っていなかったのかもしれませんが、アドラーは答えました。

「たった一人でも私のメッセージを理解して、それを他の人に伝えてくれれば私は満足だ」

 

 

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終わりに

私がアドラー哲学を私なりに理解できたのは、それまでの学びに助けられたからだったと思います。

日本に「親業」が導入されたばかりの頃に数年間学び、引き続いて中学時代の恩師にカウンセリングを学んだこと。

さらに子育てで苦労したことや人間関係に苦労したこと。

そして、聖書に出会ったとき、「親業」は聖書という土台に立つことなしには理解し得ないと気づいたこと。

 

⑬にあるように、「とりあえず、できることをしてみよう。できることをしてみれば、事態は変わる。問題はすぐに解決することはないかもしないが、深刻にならずに真剣に生きていくしかない。」のですから、とにかく、できることをやってみよう。その背景があってこそ、アドラーの思想が私なりにつかめたのだと思います。

 

クリスチャンになった私が真剣に取り組んだのは、安息日礼拝を大切にし、日々の聖書の学びとデボーション、キリストの内に生きる決意。そのことをさせてください。あなたの恵みによって、と祈りはじめたこと。

 

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マラナ・タ

⑪に書いたことが、私にとっての最大の収穫でした。

この本を紹介していた武田鉄矢さんは「普通である勇気」に感動したと話しておられましたが、私は⑪です。「私は日々、キリストにあって新しくなりました。古い自分は、キリストと共に十字架にかけました。」新約聖書のパウロの書簡にこういうフレーズがあります。私にとって、一番重要なことはこのことです。