ごきげんよう!さわこです。
今宵の月は、月齢6.4 今日は冬至
今日、友と話しているときに「アドラー心理学」について話題になりました。
2017年8月2日の記事を再編集して振り返ってみたくなりました。
今は、コロナ感染事情で、待合室の本はいっせいに撤去されていますが。
掛かりつけのクリニックの待合室の本棚で見つけた一冊の本。
「嫌われる勇気」自己啓発の源流「アドラー」の教え
岸見一郎・古賀史健 共著 ダイヤモンド社
「青年と哲人の対話篇」という物語形式で アルフレッド・アドラーの思想を1冊に凝縮した「嫌われる理由」という本を借りて帰りました。
アドラー心理学入門より、覚書その1
その時の気づきのまとめを、もう一度、再投稿して振り返ります。
以下、私が共感できたところです。
① 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが世界を複雑なものとしている。
エレミヤ書17:9「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」
②人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけを施した主観的な世界に住んでいます。
③アドラー心理学とは、ギリシャ哲学と同一線上にある思想であり哲学である。
④「あらゆる結果の前には、原因がある」という考え方には「現在のわたし(結果)は、過去の出来事(原因)によって規定されるのだ」となる。
過去の原因にばかり目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、おのずと「決定論」に行きつく。
われわれの現在も未来も、すべてが過去の出来事によって決定済みで動かしようのないものとなる。
そこで、それを否定するのが、アドラー心理学の立場である。
⑤「過去」にどうであったかにより「現在」がある、ということを否定すると、説明がつかないではないか、と青年は反撃します。
すると、哲人は「確かに説明はつかない。そこでアドラー心理学では『過去の原因』ではなく『今の目的』を考える」と答える。
アドラー心理学は、「原因論」ではなく、「目的論」である。
⑥ トラウマは「原因論」の典型である。アドラー心理学では、トラウマを明確に否定する。
⑦ フロイト心理学では、心に負った傷(トラウマ)が、現在の不幸を引き起こしていると考える。
人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力がある
⑧アドラーは、トラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。
「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック―いわゆるトラウマ―に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。
⑨大きな災害に見舞われたことや、幼い頃に虐待を受けたという出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとは言いません。
影響はあります。しかし、大切なのは、それによって何かが決定されるわけではない、ということです。
⑩ われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら選択するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。
さて、5か月後に 「アドラー心理学入門 岸見一郎」を読みました。
覚書 として箇条書きしました。
アルフレッド・アドラー(1870-1937年)
①アドラー心理学は「どう生きたらいいのか」という問いかけに明確に答えることができる
②1902年からフロイトのウィーン精神分析学会の中核メンバーとして活躍。しかいs、学説上の対立から脱退。フロイトの理論とは相いれない全体論、目的論などを特徴とする心理学を構築した。
③ アドラーは、そもそも「社会主義」に関心を持ち、政治改革による社会変革を目指していたが、政治の現実を目の当たりにして、政治ではなく育児と教育を通してのみ、個人の、ひいては人類の救済は可能であると考えて、ウィーンに児童相談所網を作り、カウンセリング活動に力を注いだ。
④ ナチズムの台頭によりユダヤ人の迫害をおそれて活動の拠点をアメリカに移した
⑤ 育児と教育はアドラー心理学の核である。
⑥力で子どもたちを押さえつけることなく全幅の信頼を持って子どもたちに接することをアドラー心理学は教えている。
⑦ 専門用語を使わない平明な講義で、誰にでも理解可能であったことから、逆に専門家の反感を買った。
⑧アドラーは、心の中ではなく、対人関係を問題にしている。
⑨ アドラーは、原因論ではなく、目的論を採用している。
⑩アドラー心理学が、他の心理学と大きく異なるのは、病気が治れば、あるいは異常がなければ正常であるとは考えず、正常とは何か、健康とは何か、幸福とはなにかを扱っている。
⑪ アドラー心理学が、正常な、あるいは健康な在り方についてはっきりとしたイメージを持っており、これを達成するために提案する方法が非常に具体的である。
⑫ 比較的裕福なユダヤ人の穀物商と6人兄弟の二番目として生まれるが、ユダヤ人としての意識は希薄で、後にプロテスタントに改宗した。
⑬ウィーン大学の医学部を出て医者になるウィーン大学に留学していたロシア人女性と、社会主義の勉強会で知り合い結婚。四人の子どもが生まれる。
⑭ アドラーは、人間は統一体と考えて、たとえば、精神と身体、感情と理性、意識と無意識に分けるというようなあらゆる二元論に反対する。
⑮ 1914年第一次世界大戦に軍医として参戦。
⑯ 戦後、社会主義への関心が再燃するが、ロシア革命の現実を目の当たりにして、マルクス主義に失望し、政治改革による人類救済を断念し、育児と教育に関心を移す。
⑰1937年5月28日、講演先のスコットランドで、心臓発作で死亡。67歳。
⑱ アドラー自身は、ナチスの収容所に行くことはなかったが、多くのアドラー派の人が収容所に送られて、その意味では、アドラー心理学はアウシュビッツで滅んだとも言えるが、アドラーに師事していたドライカースにより、戦後発展普及する。
⑲アドラーの膨大な論文は不完全な形でしか残っておらず、アドラーの長年の友人フルトミュラーはこう言っている。
この友人の言葉に私はいたく共感したのです。
「アドラーの思想を誠実に研究したいと思う者は、理解しがたいところがあっても困難を克服しようとして、アドラーの意図を把握しようとするだろう。しかし、批判するチャンスをうかがっている人は、いずれにしても欠点を見つけようとするだろう」
この見解は、すべてに通じます。
政治の世界を見ていても同様です。野党はすべてを与党批判に持ち込もうとします。
また、聖書に対しても、神のことを理解しようと思うのではなく、聖書を批判するための欠点探しを目的として読む人もいます。
育児と教育から
・アドラー心理学の大きな特徴は、幸福とは何か、健康とは何か、いかに人は生きていくのかということについて、非常に明白でしっかりしたイメージを持っている。
・ ひと昔ならば、親も教師も「権威」で子どもを従わせようとし、子どもの方もそのことを当たり前のことのように思っていました。
しかし、アドラーは、70年前にその教育方針を誤りであると言っているのです。
岸見一郎氏は「子どもは親や教師を自分と対等である、と考えています。そのような状況にあって旧来の育児や教育はもはや通用しないようになってきている、と思います。」
私は、この発言の意味は、教育方針は時代に対応していかなくてはならない、という考えだろうか。
時代と共に変わる部分と変わらない部分は存在するのではないのか、と思います。
きっと岸見氏はそういう意味を踏まえての発言であり、親や教師の権威を認めていた時代と、認めなくなった時代の大前提が変わっていることを見過ごしてはならないと言いたいのだろうと推測します。
しかし、個々で言うならば、親や教師の持つ権威を認める家庭や環境で育った子供もいれば、端から認めない環境で育つ子どももいる。
家庭環境と社会環境は同じ場合と反する場合がある。
権威を認める家庭で育っても、権威を認めない環境を、子どもが選び取ることもあるのです。その時、親は無力感を感じます。
ですから、岸見氏は「そのような状況にあって旧来の育児や教育はもはや通用しないようになってきている、と思います。」と発言されたのでしょう。
教育観の違いを掲げて、良し悪しを議論しても始まらないと思います。
そこで、視点を変えて、
「アドラー心理学は、はっきりとした目標を掲げ、絶えずその目標を達成する方向で子供を援助します」と岸見氏の書かれた「アドラー心理学の掲げる目標」を紹介します。
1、育児の行動面の目標 ①自立する ②社会と調和して暮らせる
2、これを支える心理面の目標 ①私は能力がある ②人々は私の仲間である
この目標は、親や教師の権威の有無を越えた共通の目標だと思います。
この目標に向かって、各時代において、各国において、様々な教育法が考案され実践されてきました。
・ 「アドラー心理学では、行動は信念から出てくる、と考えますから、自立し、社会と調和して暮らせるという適切な行動ができるためには、それを支える適切な信念が育っていなければならないのです。・・・
ここでいう信念は、自己や世界についての意味付けの総体でありライフスタイルと呼ばれています。この信念を人は比較的に早い時期に形成します。・・・
ですから、親や教師は、子どもと接する際、絶えず自分の行っていることが、子どもの適切な信念を形成する援助となっているかを点検していかなければなりません。
そうすればおのずと何をすればいいか、何をしてはいけないかが、明らかになってくると考えられます。・・・
このライフスタイルを自分が決める、とアドラーは考えます。
人間を創造された神はご自分に似せて造れました。
つまり、自由意志を用いて神の愛に答え自主的に神の愛に応えるという人間を。
ライフスタイルの形成に当たっては、さまざまな要因が影響因として作用します。
岸見氏のこの説明はよくわかります。
個人的な例をあげてみます。
私の場合・・・高校生の時、同級生に「あなたは自分の母親に丁寧な話し方をするのね。もしかして継母?」
結婚してからは、ママ友に「ご主人に他人行儀な話し方をするのね」と言われてまたもや驚愕。
娘の場合・・・「これをしたらお父さんはきっと怒るよね、お母さんは泣くよね、って瞬時に考えていた」と成人してから聞かされた。
だからと言って、娘は、私が両親に話したような言葉使いを私たちに向かってするわけでもなく、娘の行動がすべて親の価値観と一致するわけではない。
娘の育った時代性や友人たちの影響力も強いのです。
その上に、娘の持つ独特のもの。さらに、祖父母たちから、その前の前の代から受け継いできたもの。
親ばかりではなく先祖の誰かから。
娘は教師だからという理由で、教師のすべてを受け入れて従ってきたわけではないのです。
自分の価値観(家庭の中でその核なる部分は育ったと思う)にそぐわない部分に関しては、拒否してきました。
その結果、クラスメイトの中で孤立したこともあったし、教師によるイジメも体験してきました。
ほんとにつらかった。
神さまの創造と贖いを信じてキリストと共に生きるなら、この聖句を信じているのです。
「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)
「ライフスタイルを自分が決める、とアドラーは考えます。ライフスタイルの形成に当たっては、さまざまな要因が影響因として作用します。アドラーはこれを『素材』と言っています。素材を元に人はライフスタイルを決定するのです。」個人的なことを通してもまさに、この説明通りだと納得します。
ですから、人が育っていくには、良き素材を与えることが重要なのだと思います。
さて、ここでクリスチャンである私は「神」「聖書」の重要性が登場するのですが、本物の神(ご利益宗教でない)、聖書(人間の都合に合わせて造り変えた解釈でない)を知ること、信じることが最重要だと考えるのです。
アドラー心理学入門を読みながら、多分、私が賛同するところは、聖書の教えに共通している点だと思います。
マラナ・タ
読書を「聖別」(神様のために特別に取り分けること)してから、20年を超えました。
本好きな私は、本から様々な影響を受けます。
ですから、神様の御心にかなう読み方、理解の仕方ができるようにと、読書を「聖別」しました。
読書を通して、神様の言葉である「聖書」を、聖書に無関心な人に、伝えるヒントを見つけたいと思っています。