ごきげんよう!さわこです
私の住む町に、太陽が昇る。
雲がうろこのように。
美しい寒い朝
 
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昨日の「安息日学校聖書研究ガイド」より
 
安息日は、神の御品性と目的を学ぶことを喜び、そのご品性や目的を他者との関係の中で生かすための日です。
 
安息日を形式的に守り、礼拝を形式的に行うことを知っているだけでは、十分ではありません。
 
安息日は、優先順位を学び、それを実行するための時なのです。
 
昨日は、ここを読んで、グサッと刺されました。
 
私は、安息日を形式的守ってはいないか?
礼拝にあずかるにあたって、教会規約に則ることに注目するあまりに、本質を見過ごしてはいないか?
 
例えば、身だしなみを整えて、のつもりが、ある人の目には「おしゃれして不謹慎な」と映ることもあろし、形見の装飾品を身に着けたら、おしゃれにうつつを抜かして礼拝を何と心得ているのか?と譴責する人もいるだろうし。
お似合いですね、とにこやかに言う人もいれば、皮肉で言う人もいる。
そうしたささやき合う声に、身だしなみとおしゃれの境界線の、各自による受け止め方の違いが見えて来る。
 
「どうでもいいことじゃん!」
の世界のはずですが、「そこから、堕落は始まります」と、どうでもいいことにしてしまう軽率さへの「とがめ」も一理ある。
 
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もし、教会員の誰かから、あなたの信仰は形式的だよね〜と、言われたとしたら、平然でいられるでしょうか?

あなたこそ!笑って言い返すことができるでしょうか?

そして、互いに笑い転げた後、涙を流して、神様にお詫びするでしょうか?

 

(以前、毎朝の聖書通読やデボーションについて語っていたら、「あなたにとってはにとって、それがルーティーンなんですね」と言われて、戸惑ったことがありました。わたしにとっての命綱でありますのに・・・誰かにはルーティーンにこだわる形式主義者とも見えるわけだと気付いた瞬間でもありました。でも、それは、その人の考えであり、思いであり、私と神様の間を邪魔する何ものでもないのです。 と気づくまでに、一定の時間がかかりました)

 

朝日がビルの窓に映って輝いている。

私たちも、義の太陽であるイエス様の輝きを反射できる者でなくてはならない。

それをさせてくれるのは「主の恵み」しかない。

 

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「あなたの信仰は形式的だ」の言葉に、「神様はこの人を遣わして私を譴責なさいました」と、その人を敬愛できるでしょうか?

 

または、面と向かってではなく、陰でうわさしていることが聞こえるかもしれません。その時、どうでしょうか?

 

いくつかケースをついつい設定してしまう妄想癖がある罪人のワタシ。

 

「イエス様、私のうちにいてください。私の過ちや醜さも気づかせてくださいまして、だからこそ、あなた様の愛と赦しと導きなしでは、存在できないことをわからせてください」との祈りなしには、生きられない私を示して頂いたのでした。

 

 

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安息日学校聖書研究ガイドの副読本11章の最後に記された聖句が目に留まりました。

 

詩篇111:10

主を畏れることは知恵の初め。これをを行う人はすぐれた思慮を得る。主の讃美は永遠に続く。

 

安息日遵守が形式化しない、礼拝が形式化しないための心は、この聖句に集約されています。

安息日遵守とは、主を畏れること。

 

そこを飛ばして、形にばかりこだわるとトンチンカンの熱心な信仰になりかねません。

その頓珍漢さが、肉的な熱心さに包まれると、いつまで経っても分からないことになってしまいます。

 

有難いことに、さらに、詩篇19編に導かれました。

赤鉛筆でラインを引き、何度も読み返してきたはずの聖句が、新たに迫りました。

13-15節は、そのまま、祈りになりました。

 

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マラナ・タ

 

知らずに犯した過ち、隠れた罪から どうかわたしを清めてください。

あなたのしもべを驕りから引き離し 支配されないようにしてください。

どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない 心の思いが御前に置かれますように。

 

どうか、わたしの口の言葉と心の思いがあなたの前に喜ばれますように。